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アメリカでの仕事(2)- アメリカで就職した日本人へのインタビュー

アメリカで社会人として頑張る日本人14人に直撃インタビュー!仕事をするのは、自分のため、人のため、お金のため、社会のため?実際の体験に基づく言葉の数々に、就職活動を乗り越えるヒントを見つけよう(情報は2009年2月時点のもの)

 

アメリカで仕事をつかんだ理由|アメリカで就職に成功

現在アメリカで活躍する人は、どのようにして生きる道を見つけたのだろうか。飾らない生の声に、仕事を持つ人も、これからの人も、不安を抱える誰もが励まされるはず。

失業を乗り越えてたどり着いたアメリカ(日系企業社員 梅沢剛志さん)

梅沢剛志さん

日本での化学製品、電子部品専門商社勤務を経て、シアトルに移住したのがちょうど20年前。家内がシアトル生まれのアメリカ国籍で、永住権はすぐ取得できました。知人の紹介で面接させてもらって、米国日本通運に入社。しかし、留学経験もなく英語には全く自信がありませんでしたから、最初の1年は悪戦苦闘の毎日でした。「日系企業なら何とかなる」という考えは甘かったですね。電話を取っても相手が何を言っているのかわからず、同僚にすぐ受話器を渡して冷や汗をかいていました。いつも和英辞典持参で筆談も多かった私に、同僚がからかい半分ながら慣用句や俗語を教えてくれて、いつの間にか大きな顔をして働けるようになれましたが……。11年間の勤務で、当時の上司の石川一茂さんには大変お世話になり、彼なくしては今の自分はないと思っています。

その後、アメリカ企業への転職に失敗して8カ月ほど失業していた時に、友人の紹介で求人を知り、入社できたのがJFCインターナショナルです。米やしょう油など約2,000品目の食材をレストランや小売店などに卸すキッコーマン・グループの会社で、ワシントン、オレゴン両州のセールスと商品仕入れ業務を担当しています。当時は9.11の影響で職が見つからず、働けるところであればどこでも構わない覚悟でしたので、確固たる目的もありませんでした(苦笑)。入社して8年経ちますが、今の職場も仕事も好きなので、会社が必要としてくれる限り、一生懸命働いて貢献したいですね。読者の皆さん、弊社の商品をぜひご賞味ください!

私には、他人に誇れる才能はありません。継続は力なり。昨日より少しでも良い日にしようと地道に努力するしかないのです。どんな仕事でも大切なのは、忍耐と責任感。異国では特に自分と違った価値観を持つ人達と仕事をすることが多いので、耐える強さが必要です。また、自分の職責を全うしなければ、取引先、上司、同僚の信頼は得られません。

アメリカの日系企業というのは、日本からの資本によりアメリカ国内で運営されている企業です。日本での商習慣や対人、生活習慣をそのまま持ち込めば摩擦が生じ、時に大きなトラブルになり得ると留意する必要があります。社内では日本にいるような錯覚におちいるので、頭で理解していても失敗することが多いのは事実です。また、“現地採用者”というレッテルを貼られ、日本からの駐在員より冷遇されることもままあると思いますが、駐在員が減り、現地化が進んでいる昨今では、実力次第で昇進できるチャンスも多くなりつつあるのではないでしょうか。

結婚し、娘ができるなど、年を重ねると自分を取り巻く環境も変わって、家庭と仕事、自分の時間とのバランスや位置付けを考えるようになりました。ひとつに偏ることなく、かつ仕事を楽しめるのなら、それこそがサラリーマンにとっての適職であり、天職。今の仕事を、そういう意味でのライフワークにできたらと思っています。金銭的な問題は現在も山積みですが、時給$7でスタートした20年前の給与明細は忘れられません。

 

インターン中に正社員の職を見つけ、アメリカでの就職・転職に成功(公共機関職員 石渡和恵さん)

石渡和恵さん

アメリカに来た25年前の自分を思い返すと、やりたいことを目指してやまない信念と、積極的に外に出てチャンスを探し、人との巡り会いを大切にすることが大事だったと感じます。成功している人は皆、良い人間関係を築き、常に新しいことに挑戦しているのでは。型にはまらず、創造的な方向性を忘れないで、求めるものに向かっていくことが必要とされているのだと考えます。

私は日本の大学でマーケティングを勉強し、卒業後、当時活動に参加していた国際団体を通して1年間のインターン・プログラムに申し込み、渡米しました。J-1ビザでタコマ港湾局での研修を受けながら、アメリカ企業への就職活動を行う中、たまたま新聞でシアトル港湾局が日本向けのマーケティング強化を考えていることを知り、レジュメを持って乗り込みました。日本担当として企業広報部に入ることができ、そこでH-1Bビザを取得。観光促進部時代に永住権を取得しました。当時は対日本の観光促進が盛んで、「日本人でなくてはできない仕事」として労働許可が下りましたが、現在の職務は日本担当ではありませんので、この仕事では永住権の申請ができなかったことになります。人生、半分は運ですから、あとはその運をどう利用するか、ではないでしょうか。

今は、シアトル・タコマ国際空港における国際路線開発及び振興担当部長です。既存路線のプロモーション活動もしますが、膨大なデータを分析し、各航空会社と交渉、新路線開発に向けての戦略企画を行う時のほうが、手応えが大きく、やりがいを感じます。世界各国と関係して仕事ができるのは何よりうれしいこと。2007年に念願のエール・フランス乗り入れを達成させた際には、式典のためにパリから訪れたVIPから、現地の空港で行われたテープ・カットの赤い切れ端を渡されました。「カズエに渡すべきだ」と本社から言われて来たそうです。10年掛かった努力が報われたと、励みになりました。

シアトル港湾局は公共機関でありながら、他空港と路線獲得の競争をする立場にある私企業のような面と、一方で政治的な部分もあり、かなり特殊な環境。プレゼンをする交渉者とサポートする分析者が、他空港では別々にいるところを、ここでは私ひとりが兼任し、他部署のいろいろなメンバーも集まるので、その統率力も求められます。この仕事をするのに資格は必要ありませんが、専門的な知識が要求され、競争率の高いポジションです。少しでも空きがあると、全米から元航空会社の戦略部のプロや他空港からの乗り換え希望者が殺到します。

効率的な自己表現力が強く求められるのがアメリカ。大統領選挙もそうですが、うまく根回ししても多くに訴える力がなければ困難です。日本で言う「英語力」は基礎に過ぎず、その先の論理立った説得力を身に着けることが大事だと思います。

基本的に「これぞ」という専門がない人間ですが、いろいろな国の人達の間で橋渡しをする仕事が、いちばん自分らしさを発揮できると考えています。国際的な仕事、広くコミュニティーに貢献できる仕事が理想。空港と同時に地域の経済開発にかかわるこの仕事は、私の天職かもしれません。事務所の窓からは、これまで交渉してきた航空会社の機体が南サテライトにずらっと並ぶのが見えます。その瞬間、シアトルと世界の都市との橋渡しに自分が役立てたという実感が湧き、とてもラッキーな立場だと満足できます。

 

転職で人事のプロとしてキャリアアップ(アメリカ企業社員 徳本雅則さん)

徳本雅則さん

ニュージーランドの高校を卒業し、アメリカのミシガン大学で学士号を取得しました。その当時は日本へ戻って経験を積みたいと考えていたので、化学製品メーカーの東京本社に就職。伝統的な日本のビジネスの環境で幅広い経験ができ、学ぶことも多かったのですが、自分は年功序列にとらわれた環境は合わないと感じていました。たまたま友人の紹介で、ロンドンに本社のある人材紹介会社へ入り、日本市場のスタートアップ・メンバーとして経験を積む中、シカゴ・オフィスに異動が決定。シカゴにいる間、マイクロソフトで人事の仕事をする機会が転がってきたので飛び付きました。

 採用関係の仕事は、専攻が絞られるわけでなく、経験を積む以外にこれといった特別なトレーニングや資格が必要でない点で少しユニークな分野です。しかし、どんなビジネスでも幅広く学び、組織のニーズを理解し、ソフトスキルを常に磨いておく必要があります。また、人と接することを楽しめることが条件。キャリアとしては、人事全般のバックグラウンドを持ってから自分の専門を絞り込んでいくというよりも、人材紹介会社か企業側の採用担当として経験を積み、それから選択肢を広げていくケースが多いです。自分の場合は、最初の4年は人材紹介会社で経理・財務分野での紹介を主に担当し、その後、セールス・マーケティング系のポジションの紹介も手掛けました。

 現在は、マイクロソフトのファイナンスとオペレーションズという部門で、採用マネジャーをしています。サポートしている組織だけで1万人以上の規模で、自分の部下3人は皆、在宅勤務(ふたりはテキサス州、ひとりはワシントン州東部)ですが、チームのミーティングは電話かオンラインで行います。毎日の仕事がバラエティーに富んでいて飽きません。会社を移る時もそうですが、ポジションが変わったり、上司が変わったり、私生活の状況や景気の動向が身の回りの環境を変えてしまうことは人生において避けられませんが(特に最近は)、常に1歩下がり、全体像をつかんだ観点を持つようにすることが大事だと思います。今後の目標としては、常に新しいことを学べるポジションにいるよう努力し、職場でも、プライベートでも、自分の周りを素晴らしい人達で囲むことです。

  仕事を見つけるためには、インターネットや紙媒体に掲載されているポジションを探すだけではなく、関心のある会社や、興味を持つ仕事を今やっている人を見つけて、活発にネットワークを作るべきです。毎日仕事をしていて楽しく、やりがいがあり、苦にならないという点で、「これをやって給料もらっちゃっていいの?」と言えるような仕事が天職なのではと思いますが、自分の場合、たまたま人と人の間、または組織間のニーズを理解し、問題解決をするという今のキャリアが、適職だと感じています。

 

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アメリカで仕事をつかんだ理由|専門分野を極める

地道な下積みが、アメリカでのフリーランスへの道を開いた(通訳・翻訳 小沢弘子さん)

小沢弘子さん

義兄を頼りに、夫と日本からポートランドへ移住したのは1988年のこと。生活のために就職活動をし、立ち上げ途中にあった富士通グループの半導体チップ製造工場で通訳の仕事を見つけました。経験はなかったし、「チップ、ウエハ」と聞けば食べ物しか想像できず、最初はわからないことだらけ。しかし、幸運にも日本人出向者のほとんどが米国は初めてで通訳を必要としており、お互いが必死でした。そのまま11年間勤めたのですが、技術通訳・翻訳のノウハウをゼロから学べ、本当に良かったです。ちょうど子供がふたり生まれて育児と仕事を両立させていた時期で、エンジニアの皆さんとは家族ぐるみでお付き合いでき、とても懐かしい時代です。

2001年にこの工場は閉鎖されましたが、1999年ごろからフリーランスとなりました。会社専属なら、多少の間違いは許されることがあっても、フリーランスでは経験、実力と準備がものを言います。最初のころ、簡単な通訳だと甘く見て臨んだら見事に失敗。本当にきつかったですが、良い経験でした。そのあとはどんな通訳でも単語などを下調べして、満足のいく仕事をするよう心掛けています。

現在、夫婦それぞれのイニシャルを取ってO.P.ジャパン・アソシエイツという名の会社を持ち、通訳は私、翻訳は夫とふたりで行っています。通訳・翻訳会社、旅行代理店、日系組織に連絡するなどして少しずつ仕事も増え、始めて2年ほどで生活できるレベルに。通訳は、家から電話だったり、企業に出向したりとさまざまで、専用器具を通して同時通訳をすることもあります。翻訳は日本語から英語へのものが多いですね。企業を相手にする場合、経験さえあれば特に資格は必要ないと思いますが、サービス業ですので、クライアントのニーズをくみ取ることが大切です。今まで失敗は本が1冊書けるのではと思うほどしましたが、大事なのは素直に学び、くじけず前向きに仕事を続ける強さを持つことでしょうね。

フリーランスは収入の変動があり、盆と正月の前後は仕事も少なくなりますので対策が必要です。どんなに経験を重ね準備をしても、単語がすぐ出てこなくては通訳はできません。電子辞書を常に持ち、忘れた単語は即調べ、新しく覚えた単語も、あとで単語帳に記入するようにしています。仕事と家庭との切り替えが難しいので、バランスを保てる環境を意識して作らなければなりません。健康管理にも気を遣っています。

子供にも言うのですが、職業の選択は、自分の人生をどのように生きたいか考えることがいちばん大切であるような気がします。生き方がわかればおのずと、どんな仕事をして生活していきたいかが明らかになるのでは。それに沿って選んだ仕事であれば、それが適職であり、自分の能力が向上し人生を楽しく生きられるのであれば、天職と呼べるのでしょう。いずれにせよ、今だけを考えるのではなく、将来の展望を持って生活し、仕事をすることが必要だと心から思います。

 

人との出会いを生んだ福祉の仕事(ケース・マネジャー アダムス理奈さん)

アダムス理奈さん

高校卒業後、社会学や心理学に興味を持ったのがきっかけで、ルイス・クラーク州立大学内の英語学校を終えて進学し、福祉を専攻しました。社会、そして周りの人に貢献できる仕事が理想だと思っていたのと、普通の生活をしていては出会うことのできない人達に出会い、そこから学ぶことも多いのではないかと考えたのが動機です。

大学卒業後は、日本で2年ほど英語学校の教務課で働きましたが、日本の会社での実務経験は、社会人として成長するのに大いに役立ちました。そして、永住権を得て渡米。障害者の介護施設での勤務、ナーシング・ホームのソーシャル・ワーカーを経て、シアトル移住後は、非営利福祉団体のアジアン・カウンセリングで日本人のケース・マネジャーとして働くようになりました。キング郡在住のシニアが利用できるプログラムとアクティビティーの紹介、自宅で介護を受ける人達のサポートが主な仕事です。現在は月1回の相談日を設け、川部メモリアルハウスと藤見荘を訪問しています。

どの仕事にも共通しますが、ストレスと上手に付き合うことと、福祉に興味と情熱があることがケース・マネジャーとしての条件だと思います。天職はまだ見つかっていないものの、人とかかわるこの仕事は私の適職です。これまで、さまざまな人生経験談を伺うことができ、人生が豊かになりました。シアトルにあるシニア向けのプログラムの多くが、あまり知られていないのが残念です。ひとりで悩んでいる方もたくさんいらっしゃるので、解決の糸口を見つけるお手伝いができればと考えています。

 

アメリカでの資格取得が天職へつながった!(会計士 尾崎真由美さん)

尾崎真由美さん

「日本で一生の仕事をするには、資格なしには通用しない」と思い、大学は法学部だったので弁護士も考えましたが、現実的な選択とは思えず、刑法から税法に切り替えました。税理士資格を目指して専門学校にも通い、国税局申請をしたのは大学院在学中です。アメリカの会計士資格を取る際は、子供が1歳だったので勉強は10カ月だけと決め、英語のテキストを使い、ワシントン大学の図書館に毎日通いました。試験内容は統一されていますが、監査業務などに必要なライセンスを取る条件は州によって異なり、ワシントン州では当時1年間の実務が必要でした。他州では、大学院の学位が必要だったり、何もいらなかったりといろいろです。

日本でも税理士をしていたので、この道1本。会計の理論に夢中で、今の仕事は天職です。税金に関するすべてを扱いますが、確定申告作成が大好きで、数字を合わせるのが楽しくて仕方ありません。母も経理の仕事をしていますが、性別の関係ない仕事ではないでしょうか。

どの仕事もそうですが、相手への思いやりが大切で、クライアントが何を必要としているか常に気に掛けています。アメリカは訴訟が多いので、資格を持つ仕事なら、保険は絶対に必要。日本人が相手だからという甘い考えは、アメリカでは通用しません。契約書はよく読んでサインする、弁護士を立てる、相手の無理な要求には応じない、などの心構えが大切。今はEメールなどで便利にコミュニケーションできるので、経理や確定申告などライセンスの制限がない業務であれば、距離は関係ありません。海を越えた日本にも、クライアントはたくさんいます。

 

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アメリカで仕事をつかんだ理由|夢を叶える・才能を生かす

世界を目指すには「好き」の気持ちと心構えが必要(フィギュア・スケーター 佐藤有香さん)

佐藤有香さん

10月にシーズンが明けると、TVの特別番組出演以降はフィギュア・スケート・ショー「スターズ・オン・アイス」一色。正月明けには日本公演も5回こなし、アメリカ・ツアーでは1月末に行われたシアトル、ポートランド公演を含め、4月半ばまで全米40カ所を回ります。今回は特別企画として、たくさんの日本人の皆さんと触れ合う機会を設けていただき、とてもうれしいです。

エンターテインメント、コスチューム、チームワーク、音楽と、フィギュア・スケートの魅力すべてが詰まったこのショーは、10代初めにスケートのビデオを見て知り、以来、私の夢の舞台であり、目標でした。中学生の時から国際試合に出るようになり、16歳でカナダのオタワで特訓を受け、1992年、1994年のオリンピックに日本代表として出場。世界選手権で優勝後、夢を叶えてプロに転向してから今年で15年目、ショーへの参加は7シーズン目を迎えました。

父母がコーチだったため、スケートは幼いころからしていましたが、自分でも滑ることが大好き。何があってもゴールに向かう力に加えて、「好き」という気持ちがなければ続くものではありません。ましてや代表になるには、何もかも犠牲にして世界を目指す心構えがないと非常に難しいです。オリンピックでメダルは取れませんでしたが、たくさんの経験を得られ、出場できたことにとても満足しています。結果、いろんな人との出会いがあり、新たな道が開けたのも事実。好きだと自信の持てることが、現実として仕事にできている私はとても幸せです。これからは経験を生かし、滑るだけではなく、指導や解説などサポートする側として、スケート選手に限らず、同じ日本人の方々を応援していきたいし、スケートの魅力を伝え続けていけたらと考えています。

 

自分を他人と比べず、失敗も次への糧に(コンサートマスター 岩崎 潤さん)

岩崎 潤さん

音楽家の両親の下、幼少のころからバイオリンを始めましたが、練習を強いられることはなく、普通の学校へ通い、スポーツもしていました。バイオリニストの道に進むことを決めたのは高校生の時。演奏後、観客の幸せそうな顔を見るのが好きだったのが理由です。クリーブランド音楽院在籍中に出会った恩師の影響を受け、大きな責任を伴うコンマス※を目標とし、その学位も取得しました。

ほかの楽団員と同様、コンマスもオーディションを受けます。60~70人の応募者から最終選考で4、5人が選ばれ、一定期間、オーケストラで働いたうえで最終決定が下るのが普通です。落ちることもありますが、それは下手だからではなく、求められる音楽とマッチしていないから。失敗ではなく、次へのステップと考えています。

私は学校を出てから2007年までオハイオ州のキャントン交響楽団でコンマスを務め、現在はオレゴン交響楽団のコンマスとなり、1月にソロ・デビュー公演を果たしました。仕事は公演の本番だけではなく、オーケストラの練習が2時間半、自主練習も2、3時間、ソロ・パートがあれば5、6時間、コンマスとして調弦指示などのライティング・ワークに数時間、と1日の大半を仕事に費やしています。

私は、自分と誰かを比べたりはしません。いつだって自分より上手な人は必ずいるもの。プレッシャーも周りからではなく自分で掛けて克服します。他人に左右されず、いつも前向きな態度で仕事に取り組むべきです。まだ26歳なので、これからどうなるかはわかりませんが、今はこのオケのために働きたい。この仕事は、自分が就きたかったと同時に周りからも勧められた職業で、ずっと信じてこの道を歩み続けてきました。適職であり、天職であると思っています。

仕事選びの際は、自分で決めようと、誰かに言われて決めようと、とにかく楽しんでできる仕事かどうか自分に問い掛けてみてはいかがでしょうか。もちろん、毎日フル・タイムで楽しめる仕事は少ないでしょうが、良い部分を探すことだってできるはず。「しなければいけない」でなく「したいからする」という仕事がいちばんだと思います。

※コンサートマスター:バイオリニストの首席奏者で、楽団員のリーダーとして指揮者を補助する。

 

趣味が高じて副業へ発展!(写真家 中村良樹さん)

中村良樹さん

日本航空の駐在員として1985年から3年間シアトルに滞在し、帰国後に抽選で永住権をもらえる幸運に恵まれました。日本での仕事を早期に退職し、1994年に妻と娘(当時4歳)と共にシアトルへ移住。現在は日系の企業に就職し、エンジニアとして就労する傍ら、写真の仕事を副業としています。

デジタルカメラを使って本格的に写真撮影に取り組むようになったのは2001年ごろから。当初は趣味でシアトルの景色を撮っている程度でしたが、自分の撮った美しい写真を多くの人と共有したいと思うようになり、幸い、喜んで買ってくれる人達が出て来てくれたので、2002年にシアトル・デジタル・フォトグラフィーを設立しました。著名な写真家のワークショップに何度か参加した以外には写真の教育を受けていないものの、インターネットを通して最新技術や資料が手に入るので助かっています。私の目標は絵のような写真を撮ることですが、プロの仕事は結果(良い写真)がすべて。周到な準備と忍耐が必要で、そのうえ幸運が重なると素晴らしい作品になります。写真撮影前には、どういう写真を撮りたいか、どう撮るか、イメージを作って準備することが大切。起こり得ることを予測し、それを待つ忍耐力が不可欠です。ただし、自分の思い入れの度合いとクライアントの満足度は必ずしも一致しません。私の場合、大変苦労して得た写真でも、ほかの人が見たら必ずしも良いものとは限らない、という単純な事実に気が付くのが遅かったと反省しています。

何をやるにしても共通かもしれませんが、この仕事をするには、のめり込むほど写真を好きになることが必要です。財政的に安定するまでに時間が掛かりますし、撮影の技術や感性を養うにしても、それを求める情熱や野心がないと継続できません。私の場合、家族や周りの方々の理解や支援のおかげで、情熱を失わずに今に至っており、大変ありがたいと感謝しています。被写体は2度と同じ条件では現れません。常に新しい状況に接し、体験をし、それを自分の納得するようにカメラに収めることができた時は大きな喜びがあります。写真の仕事を通して、地元を始め、世界中の写真愛好家と情報交換などの交流が持てるのも、うれしいことのひとつです。

私にとって、エンジニアの仕事は、得意なことを生かして世の中のためになることを行い、その報酬として生活に十分な収入を得られる適職です。収入面では追い付きませんが、好きなことができている写真の仕事は天職。最終目標はシアトルの写真に関しては世界一、シアトルに中村良樹あり、と一般の人から認識してもらい、一家に1枚は私の写真が飾られることです。

 

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アメリカで仕事をつかんだ理由|起業にチャレンジ

起業は目標を達成する手段に過ぎない(IT企業社長 高須賀 宣(とおる)さん)

高須賀 宣さん

日本では最初、松下電工の情報システム部門でネットワーク・エンジニアとして勤務していました。社内のプロジェクト・メンバーにエンジニア代表として選ばれたのをきっかけに経営に興味を持つようになり、社内ベンチャー制度を利用して子会社を作って、その副社長を1年務めた後に退社。1997年に元同僚と共にソフトウェア会社のサイボウズを設立し、東証マザーズに上場もさせましたが、東証1部に上がる直前に代表取締役を退任し、2006年にポートランドでルナー(Lunarr, Inc.)を起業。昨年末には、画像とテキストを仲間とシェアする無料のインターネット・サービス「LUNARR elements」を公開しました。「利己的ではなく、社会が必要とするものを提供する」という目標を達成するため、方向性を決めたり、大まかな構想を考えたりと、会社の大枠を作る仕事を代表取締役兼CEOとしてこなしていく日々です。

“アメリカで起業”と言っても、それは目標を達成するための手段でしかありません。実際に目標を具現化させるためには、賛同する人達と一緒にチームとして働くこと、そして、それを楽しむことが大切だと思います。コンピューターの世界は時代と共にどんどん変わっていき、昔はホスト・コンピューターが主役だったのが、その後はパソコンが台頭し、そして情報重視のインターネットが世を席巻。今の主軸は、インターネットがどう社会に浸透していくか、に置かれています。なぜ変わるのか? それは、変化する環境の中で必要とされるものも変わってくるからであり、ソフトウェア業界にも同じことが言えます。私の目標は、時代に即したソフトウェアを世界に向け広く提供していくことであり、その実現には、アメリカで起業するしか方法がありませんでした。

起業の際に厄介だったのが、就労のためのE-2ビザ取得。事業計画書といった事務手続き、大使館での面接など、約半年を費やしました。それらは面倒ではあったものの、いちばん大変なのは目標に向かって行動していくことです。多くの失敗も経験しましたが、すべては目標を達成するための糧。時間が掛かっても、チャレンジし続ければ得られるものは必ずあります。

就職や転職を考えている人は誰しも「自分に向いている仕事とは何だろう」と自身に問いかけ、探しているはず。しかし、人生で偶然に出合った仕事と向き合い、全力でこなしていけば、それが天職であり適職なのだと思います。目の前にある仕事を誠実にこなし、明確な目標を持つこと。それによって、チャンスや機会は必ず巡ってくるもの。あるいは、本当に探しているものは案外、目の前にあるのかもしれません。

 

やる気さえあれば誰でもできるストレスフリーの仕事(オーガニック農場オーナー 滝 克典(かつみ)さん)

滝 克典さん

日本では大学の農学部で基礎を学んでいたものの、地方公務員や養護施設勤務を経て、ニューギニア島の難民キャンプで1年2カ月の間、農業を指導した経験が農家となる転機となりました。ニューギニア島に戻りたくてビザを申請し、待つ間にアメリカのコネチカット州にある学校で奨学金をもらって聖職者のための勉強をしていましたが、7カ月経ってもなかなか下りません。そこで、教授からワシントン州ヤキマにある長老教会を紹介してもらい、ボランティアとして2年間、子供達のための野菜作りを手伝うことになりました。どうせならと、その近くで36.5エーカーの土地を買い、自分の農場(メイアー・ファームータキ)を持ったのが始まりです。

買った土地は元々農場ですが、周りから隔離され、持ち主が亡くなって8年も放ったらかしの荒れ地でした。しかし、化学肥料を使っていた農場、または隣にそうした農場がある場合は土が汚染されているため、オーガニック農業を始めるには3年は待たなければいけませんから、私には都合が良かったのです。やがて作物をシアトルのパイク・プレイス・マーケットで売るようになり、仲間の勧めもあって、2年目でオーガニック認定をもらいました。化学肥料を使っていなくても、この認定がないと「オーガニック」の作物として売ることはできませんし、違反したら刑事罰が科されます。スタッフはほかにひとりと、選別ではふたりに手伝ってもらっていますが、手作業なので畑にしているのは土地の半分だけ。できる範囲で、このまま現状維持でやっていければと考えています。

現在は、5~11月の収穫期に、ユニバーシティー・ディストリクトのファーマーズ・マーケットで、大根、ゴボウ、レタス、小松菜、メロン、スイカ、リンゴ、サクランボ、ベリー類などの野菜や果物50種を販売しています。日本の品種は、すでにキュウリやナスなどがありますが、もっと増やしていきたいですね。最近は、日系スーパーマーケットやレストランにも卸しています。冬はパン屋で働いて生計を立てていて、温室での種まきは2月から開始。樹の花が凍らないようにスプリンクラーで池の水を掛け、朝晩と見張っていないといけないので、5月までの春先はなかなか眠れない日々が続きます。ある年のイースターに1回凍らせてしまって、アプリコットやネクタリンなどをすべてダメにした失敗もありました。

この仕事に必要なのは、やる気だけ。年齢も関係ありません。私も40代で始めて、今年で17年目になります。ただ、自然が相手ですし、3年は試行錯誤することになりますので、始めるのに1年分の蓄えは必要です。自分は机に向かうのがイヤなので、体を使うこの仕事が合っていると思いますし、人に使われることもないからストレスも感じません。ファーマーズ・マーケットでは、お客さんから直に喜びの声を聞けるのが何よりうれしいこと。規制だらけで元気のない日本の農業にもぜひ、このファーマーズ・マーケット方式を取り入れて欲しいものです。昨年、東京農大の学生が私の農場へ研修に訪れました。興味のある人、特に日本に住む人には、どんどん研修に来て、オーガニック農業を学んで欲しいですね。

 

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連載コラム「アメリカ 就職転職 最前線」はこちら »
(シアトルのIT企業でレジュメ2万枚を読んだ採用のプロ、鷹松弘章氏がアメリカでの就職・転職について教えます)

 

*情報は2009年3月時点のものです。掲載内容は変更されている場合があります。


【特集|アメリカで就職?日本で働く?】ページ1ページ2


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