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番外編「ゲティスバーグにて」

アメリカ・ノースウエスト自然探訪
2013年02月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

今回の舞台は米国北西部ではなく東部、主役は自然でなく人間日本が、黒船来航から明治維新へ国を挙げての大動乱の時代黒船を遣した米国自体もまた、国を割った激しい内戦の只中だった

オレゴン・デューンを素足で歩く(歩かせる?)エコキャラバン
▲農場が広がるなだらかな丘陵地帯がこの古戦場の舞台。公園内は、植生を往時(1863年)に極力近い状態になるように、復元プロジェクトが進められている

目の前の光景と想像力と

ポートランド郊外の森のトレイルを、元商社支店長と歩いて、ふたりで明治維新の話をしていると、たまたま馬に乗った女性達と行き合った。直後に「生麦事件のこと思ったでしょ」と隊長が言うと「思ったね、馬に乗ったあんな高い位置の人をよく斬れたもんだなぁ」「それも示現流でねぇ」「ジャンプして斬ったのやろか?」「その頃の道なんてさほど広くなかったろうね」……「日本の歴史が面白いのは近代史。せいぜい幕末から明治維新ぐらいまでだね、私には。自分が子供のころのことや風景などから、なんとなく想像がつく」「ウンウン……」。ーー東部の雪景色の古戦場に立った時、隊長はそのことを思い出した。

南北戦争

南北戦争当時の米国は、直前までにイギリス、メキシコから領地を併呑して、ようやく現在の本土の大きな国土となったところだったが、国の人口は2千万~3千万人ほど。人口は現在と比べ10分の1以下の、小さな国だった(※1)。交通手段といえば、徒歩と馬と船。通信手段は手紙か伝令。武器はサーベル、拳銃、銃剣付小銃と大砲。戦法も用兵もまだ近代戦とは言えなかった。そんな時代のアメリカの、そんな戦争である。
南北戦争をここで語るには、到底誌面が足りない。が、ひとことで言うとそれは、単なる内乱・内戦というより、民主主義の限界を突き破って割れた国論(※2)を、力ずくで決着付けるとどういうことになるか、実際に試した壮大な実験とも言える。この戦争からアメリカは、政治の考え方、決め方を大きく学んだと隊長は思う。

ゲティスバーグの大会戦

ゲティスバーグは、首都ワシントンDCから北へ60マイルの丘陵地帯にある、小さな宿場町である。会戦の際は、アパラチア山脈の山ひだのひとつ、ブルーリッジ山脈を挟み、南軍は北軍を迂回して首都ワシントンDCを衝くように北上。これに並行し、北軍は首都を守るように北上した(※3)。そして1863年7月1日からの3日間、この町の周囲で北軍(合衆国軍)約9万4千人、南軍(同盟軍)約7万2千人の将兵が対峙、衝突し大きな戦闘に及んだ。
ゲティスバーグ会戦の大きな山場はふたつあった。ひとつは会戦2日目のリトル・ラウンド・トップ(Little Round Top)の攻防戦である。北軍は薄氷を踏むような用兵で、この小さな丘を守り抜いた。これが南軍の手に落ちていたら、戦いの成り行きは変わっていたかもしれない。ふたつ目は、会戦3日目のピケットの突撃(Picket Charge)。南軍の約1万3千人の兵士が、横一線の横隊で北軍陣地に向かい、1.2キロを突撃(行進)したが、北軍からの激しい銃砲火を浴び、その半数が死傷して敗退した。3日間の激戦での損失(死傷者、捕虜・不明)は、両軍共にそれぞれ2万3千人を超える甚大なものだった。その後、南軍は兵をまとめ南進帰営。北軍も、これをまともに追撃するだけの戦力は残っていなかった。
この戦闘が南北戦争の動向を決したという説は、かなりこじつけである。なぜなら、①損害としては南北両軍同程度の痛み分けであった。②北軍は後退しつつ防戦に終始した。③南北戦争はこの会戦の後、まだ2年近くも続いた。むしろ、この大会戦と同時期に西部戦線(ミシシッピ州)で起こったビックスバーグの包囲戦で北軍が勝利したふたつの戦いの結果がその後、南軍の戦力と戦争継続の気運を相当に大きく削いだのである。いわばボディーブローのワンツーだ。その意味で、このゲティスバーグ会戦は南北戦争の期を画した戦闘と言えるだろう。
リンカーン大統領が有名なゲティスバーグ演説を行ったのは、この会戦の4カ月後、ピケットの攻撃が行われた場所である(Information参照)。

西部と東部

米東部に居た、あるいは行ったことのある人は、この国の西部と東部の違いをすぐにいくつも列挙できるだろう。歴史、木、自然、気候、人、街並み、家の造り、道……。アメリカの自然の多様さ、広大さと言えば、論を待たず西部に軍配が上がる。が、人々の歴史、文化面の見どころは圧倒的に東部に多い。
日本人に人気のアメリカは、ハワイやグランド・キャニオンなどの観光地、ラスベガスやニューヨークなどの都市や、テーマパークばかりだけれども、この大国はそれらだけで成り立っているわけではない。縁あってアメリカに住む、あるいは来ている私達は、機会があれば米東部のこのような史跡にも足を向けたいものである。そうすることで、この若い大国の別の顔を知ることができる。目の前の光景が作り出された背景にも思いを馳せられる

ゲティスバーグ国定軍事公園
▲ゲティスバーグ国定軍事公園は、1895年に制定された、ゲティスバーグの街を囲む約6,000エーカーの史跡(古戦場)公園。戦没者墓地、ビジター・センター、壁画(Cyclorama)、数多くのモニュメント、これらを巡るオート・ルートからなる
ゲティスバーグ国定軍事公園
▲右に見える「Auto Tour」のサインに導かれ園内の十数カ所のスポットを回る。所要時間は1周約3時間
ゲティスバーグ国定軍事公園 ビジター・センター内▲ビジター・センター内は、広い展示館になっており、戦いで使われた武器や将兵の写真など、多数が展示されている
ゲティスバーグ国定軍事公園 ビジター・センター内


日本とアメリカの主な内戦表
リトル・ラウンド・トップの丘
▲激しい攻防戦が行なわれたリトル・ラウンド・トップの丘。南軍はこの丘を取り、大砲を引き上げれば北軍の防衛線を撃ち崩すことができたが、北軍は守り抜いた。貧相な林と岩のたかだか150フィートの小さな丘である。林間の斜面は死傷した将兵達で覆われ、下のクリークは血で赤く染まったといわれる。150年前の7月2日、ここは文字通りの屍山血河の様相だった


※11,800年代のアメリカには、まだ国勢調査がなく、人々の居住区も、海岸沿いか大きな都市周辺に限定。フロンティア(周辺地帯)も先住民の人口は把握できていなかった。ちなみに当時(江戸時代末期)の日本の人口は約3,500万人と推定されている。
※2南北戦争は、連邦国家を続けるか否かを巡って戦われた。「奴隷解放」は後付けの大義名分と言える。実際、リンカーン大統領が奴隷解放宣言を発したのは、ゲティスバーグの合戦の2カ月後である。南北戦争後に奴隷制度は廃止されたが、黒人の差別構造の廃止にはその後さらに100年を要し、21世紀の今も無くなったわけではない。
※3当時の合衆国(北軍)の首都ワシントンDCと、同盟国(南軍)の首都リッチモンド(バージニア)間はわずか108マイルの距離である。北西部に当てはめてみると、ポートランド/ユージーン間よりもまだ近く、シアトル/エレンスバーグ、あるいはエベレット/オリンピアほどの距離。

(2013年2月)

Information

ゲティスバーグ国定軍事公園
ペンシルバニア州の州都ハリスバーグの南東約40マイルの位置にある。解説が多数あり、朝夕の景色も美しいので、できればゲティスバーグの街に泊まり、車を使ってじっくり見学して欲しい。園内には実際の戦場となった場所を歩くトレイルが数カ所ある。
Gettysburg National Military Park
www.nps.gov/gett/

リンカーン大統領のゲティスバーグ演説
リンカーン大統領は、激戦の4カ月後、この地に国立戦没者墓地を造った。その際の演説の言葉、“of the people, by the people, and for the people(人民の、人民による、人民のための政治)”があまりに有名になったが、1番目の「“of”the people」は、表面上はわかった気にさせて実は深い意味がある。余談だが、日本国憲法の前文には、同じ趣旨の文言が謳われている。「国政は……国民に由来し……国民が行使し……国民がこれを享受する」。
The Gettysburg Address
http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲティスバーグ演説

Reiichiro Kosugi
1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。