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どたばたシアトル留学日記

期待と不安、そして根拠の無い自信に胸をふくらませ、 シアトルに留学したおたく女子大生。そこで待ち受けていたものは?
(文/梶 史佳)

<第1回>シアトルへの留学を決意!ホスト・ファミリーと対面

英語はあまり得意ではなかった。本を読むことが好きで、選んだ大学の学部は文学部国文学科。授業では日本語や『源氏物語』を勉強する毎日。しかし、留学に対しては漠然とした憧れと好奇心、そして根拠の無い自信を持っていた。「絶対に自分の人生にプラスになる経験が得られる」。もちろんこの甘い考えに、友人の何人かは「国文学科なのに留学? 京都にでも行くの?」となかなか厳しい反応だった。

こんな私がシアトルで生活できたのは、一概に両親の理解のおかげだ。私の好奇心と経験のために、たくさんのお金と時間を掛けて良いのか、もし結果が出せなかったら……と考えていた時、母は私にこう言った。「英語がそんなに話せるようになるとも思っていないし、将来とかも期待していないよ(笑)。でも、きっと良い経験になるから行ってみれば?」。こうして大学3年の夏の終わりから、私の7カ月間に及ぶ留学生活が始まった。

それまで私は1度も海外に行ったことが無く、飛行機に乗ったのも修学旅行以来だったが、なんとか無事にシアトルに到着。そこで初めて大量の外国人を見た。全て英語の標識を見て、日本から出たと実感! 迎えに来てくれたホスト・マザーのローラは、とにかく声高らかに笑う人だった。私は彼女が何で笑っているのか分からなかったが、日本人お得意の合わせ笑いで一緒に笑った。

家に着き、ローラの娘、ジェシーと対面。事前にもらっていた資料にあった生年月日から計算すると彼女は30歳、家にいる時間帯を明記する欄には「All Time」と書いてあった。30歳でオール・タイム、つまりニートか。一抹の不安を覚えたが、実際のジェシーは152センチの私より小さく、ノーメイク。顔にはあどけなさも残り、想像と違っていた。ただ、威圧感が半端でなかったため、完全に圧倒されたことは言うまでもない。

何日か経ち、ジェシーがよく学校の話をローラにしていることに気付いた。ニートなのに学校へ行っているのか……しかもどうやら数学が得意らしい。アメリカのニートは意識が高いようだ。私はローラに聞いた。「ジェシーはどういう学校に通っているの?」「ミドル・スクールよ」……え? 中学生? そう、彼女は13歳の少女だった。なぜか私は生年月日の計算を大幅に間違えていたようだ。8歳も年下の女の子を相手に私はびくびくしていたのか。それにしても、日本、アメリカ共に若者は強く、怖い。不安要素だらけの留学生活は大きな勘違いからのスタートとなった。

(2012年9月)

<第2回>泥酔ハロウィーン・パーティー

シアトルでの留学生活も2カ月が過ぎたころ、アメリカ中が盛り上がるあのイベントが近付いてきた。そう、ハロウィーンだ。日本でハロウィーンの行事をしたことがなかった私は、街に溢れ出すオレンジ色に胸を弾ませていた。

ハロウィーン前日、ホームステイ先とご近所さん合同で、カボチャ彫りを体験。30歳だと思っていたホスト・シスターのジェシーが15歳だったということは前回に書いたが、そのジェシーが15分程で簡単な猫の顔を彫り、さっさと部屋に戻ってしまう中、私は1時間無心にカボチャを掘り続けた。自分で彫ったカボチャの中にライトを入れると、暗闇の中にぼやっとした光が浮かび上がる。なんだか心がほっこりした。

当日は学校でハロウィーン・パーティー。私はいちばんの友人である韓国人のジニーと、事前に仮装用のコスチュームを入手していた。ジニーはうさぎ、私は猫の格好で控えめにかわいさをアピール。しかしパーティーが始まるなり、この選択を少し後悔することになる。……なぜならば、地味過ぎたのだ!! パーティー会場にはピエロ、プリンセス、クジャクなどきらびやかで派手な生き物が大勢いた。次回(があるのかどうかは分からないが)は、もっと自分をアピールしていこうと決意しながら、ゲーム、コスプレお披露目会をし、ダンスでひとしきり汗をかいてパーティーは終了……するかと思いきや、そこから友人らとバーに行くことになった。

私は自分がどれだけお酒に弱いかをよく知っている。しかし、ハロウィーンの夜はそんな現実をも忘れさせる力を持っているようだ。

私達が1件のお店を見つけた時、既に1:30 a.m.を回っていた。シアトルのバーは、どこも2:00 a.m.までなので時間がない。そこで私達は1杯で効果抜群なショットを飲むことにした。私は初挑戦だ。「1、2、3」の掛け声でみんな一斉に飲み干す。……苦い。のどが焼ける。体もだんだん熱くなってきた(汗)。しばらくこの店でまったりしたかったが、閉店時間も迫っていたため長居はできない。

どうにか店を出るも、今度は真っ直ぐ歩けなかった。友人に笑われながら、助けられながら、やっとのことで友人が住む寮に到着。

既に限界が来ていた私は、気付かれないようにひとりで静かに吐き、ようやく長い1日が終わった。まさかこんなにつらい夜になるなんて……恐るべしハロウィーン。でも、忘れられない思い出になったことは言うまでもない。

皆さんも盛り上がり過ぎには気を付けて、そして、近所迷惑にならないよう注意しつつ、ハロウィーンを楽しんでください!

(2012年10月)

<第3回>クラスメイトとのコミュニケーション

90%以上の生徒がサウジアラビア出身。そんな学校環境で私は何人かのサウジアラビア人、アメリカ人、韓国人、そして日本人と特に仲良くなっていった。

初めはサウジアラビアについての知識なんて「石油」と「ウサマ・ビンラディン」しかなかったし、韓国人は日本人との違いなんて言葉くらいだろうと思っていた。アメリカ人のテンションの高さはただただ恐怖であったし、日本人とは留学中できるだけかかわりたくなかった。しかし彼らと毎日を過ごしていくうちに、自分の視野がどれほど狭いものであったか思い知らされた。

いたずら好きで中学生男子のようなサウジアラビア人に、優しいアメリカ人、文化・容姿は酷似しているのにもかかわらず、いちばんぶつかることが多い韓国人。そして帰国後も連絡を取り合い、大切な友人となった日本人。彼らとの出会いにより世界はどんどん広がっていった。

しかし毎日一緒にいれば衝突も起こる。多くの場合、その原因は「言葉」だった。放課後にみんなで話をしている時、ひとりの韓国人がなぜか韓国語で別の韓国人に話し掛けることがあった。その瞬間、彼らとの間には大きな壁ができ、私達は強い疎外感を感じる。初めはやり過ごしていたが、私はだんだんイライラしてきた。「彼は、理解できない私達をばかにしているのだろうか?」加えて彼が成績優秀で英語もうまいという事実が余計に私を苛立たせた。しかし私は日本人。笑いながら「I can’t understand……」と呟くことくらいしかできず、全然効果がない。

そしてある日、同じように韓国語での会話が始まりイライラしていた時、話し掛けられていた韓国人がいきなり強く言い放った。「Don’t speak Korean.」……シーン。彼女は同じ韓国人でありながら、彼の行動をよく思っていなかったようだ。同じ韓国人に言われたのが効いたのか、彼はおとなしくなり韓国語で話すのをやっとやめた。

言葉の持つ力は強い。簡単に人を疎外し、不安にさせることができる。だからこそ、「英語で話す」というのは最低限のマナーだった。どんなに仲が良くても、違う言葉や文化を持つなら、お互いが理解し合う努力をしなければならない。それを知り、乗り越えて、私は大切な仲間を手にした。これが、私の留学生活でいちばんの収穫だと思う。

(2012年11月)

<第4回>留学中に迎えた、アメリカのクリスマス

冬のアメリカはイベントであふれている。ハロウィーン、サンクスギビング、クリスマスと続き、あっという間に新年を迎える。サンクスギビングについてはただひたすら食べた記憶しかないので割愛しよう。

時は過ぎてクリスマス。アメリカでクリスマスの訪れを最初に感じたのは、家々のド派手なイルミネーションだった。これは個人宅が行うレベルではない。大量のキャンドルや動物のライトが家を装飾する。遊園地にあるような、回転する乗り物のミニチュアやフラダンスを踊る人形など、目立てばなんでも有りといった家もあった。ホスト・マザーのローラはこれを「Competition」と呼んだ。そう、あれはただクリスマスを彩るための飾りではない。維持とプライドを賭けた見栄の張り合いなのだ。そんな事情はつゆ知らず、私はきれいなイルミネーションに心を躍らせていた。

クリスマス・イブは、近所の家族と一緒にごちそうを食べた後、ローラと教会へ向かった。そういえばクリスマスってイエス・キリストの誕生日だったなぁと、私はやっと思い出す。そこでは最初に、全員へキャンドルが手渡された。そして讃美歌を歌った後、全員のキャンドルに火を灯し電気を消す。すると教会が一気に幻想的な雰囲気になる。そこは、感動を覚えるほど美しい空間だった。

一夜明けるといよいよクリスマス。ツリーの下には前日から子供へのプレゼントが大量に置かれていた。そして朝になると、ひとつひとつの包みを家族の前で開けるお披露目会が行われる。アメリカの子供はこんなにプレゼントをもらえるのか。しかも電子書籍や人気のブランド服など、高価な物も多い。ホスト・シスターのジェシーもローラに「ママ、いくら使ったの!?」と、聞いてはいけない質問をしていた。

私もジェシーと仲良くなるにはプレゼント作戦だと思い、事前に購入していたパフュームをツリーの下に忍ばせていたのだが、これがなかなかのヒット! 私の作戦は成功したようで、この日からジェシーは私にクッキーを作ってくれたりと、とても優しくなった。作戦にまんまと引っ掛かるなんてまだまだ子供だな、とにやにやしつつ、その近づいた距離がやはりうれしい。クリスマスは世界共通でみんなが幸せになる日であるようだ。

(2012年12月)

<第5回>渡米・留学開始から4カ月経過、そして"病み期"へ

留学から4カ月が経ち、新年まであと1カ月に迫った頃、突如"病み期"が訪れた。

きっかけは、ホスト・シスターのジェシーが言った何気ないひと言。その日はジェシーの友人が家に遊びに来ており、3人で夕飯を食べていた。当時の私はジェシーと、ホスト・マザー、ローラのマシンガン・トークをなんとなく理解できるようにはなっていたものの、会話に入るのはまだ難しい状態。彼女が話し掛けてきた時も理解はできたが、返答はつたないものだったと思う。その状況を見たジェシーが友達の耳元で静かに言った。「She may not understand」……聞こえています。

13歳が言ったこの言葉の破壊力は思いのほか大きかった。彼女に悪気はない。しかし私が毎日肌で感じていた、人とコミュニケーションがうまく取れないという、惨めで苦しい現実。これが言葉になって私に突き刺さった。しかも中学生によって。英語上達のためと気を張り続けていた心が折れるのを感じた。

部屋でひとしきり泣いた後、私はアメリカに来てから禁じていた、動画サイトのYoutubeを見ることを解禁。始めは、とにかく笑いたくてTVのお笑い番組を見た。そして「AKB」や「嵐」といった、お得意のアイドル動画へ派生するともう止まらない。その日から私は、暇があればYoutubeを開くようになり、動画を巡っているうちに辿り着いた「ももいろクローバー」というアイドルにいたっては、はまりすぎてダンスが踊れる状態にまで成長。これではだめだと思いつつもやる気は出ず、Youtubeが止まらない。まさに廃人だ。そんな状態で私は2012年を迎えることとなった。

大晦日の夜は、シアトル名物のスペースニードルの花火を見た後、アメリカ、モンゴル、インドネシアの友人達と朝まで語り明かした。ふと2011年を振り返ると、日本から出たこともなかった私がシアトルで年の瀬を迎えていることがとても不思議で、感慨深かった。そして思う。「私の英語ちゃんと上達しているかも」。

初めはスターバックスでバニラ・ラテを注文してもチャイ・ラテが出てきたし、友人だってアジア人の留学生ばかりだった。英語力はまだまだだが、こうして一緒に年越しをするネイティブの友達もできた。みんなと楽しんでいたら、いつの間にか「また頑張ろう」という気持ちが湧いてきた。こうして私の病み期は無事に終息を迎えたのだった。

(2013年1月)

<第6回>留学の成果、旅先での出会い

そうだ、ニューヨークへ行こう。3月中旬の帰国を目前に控え、留学の集大成として私は2度目のひとり旅を決めた。1度目は、留学してまだ1カ月ほどの時。英語力向上を目的に、ロサンゼルス、ラスベガス、グランド・キャニオンを回る旅だったが、移動中にバスが故障し、砂漠の中で2時間足止めを食らうという波乱万丈な旅であった。

ニューヨーク出発の日も早速事件は起こる。……寝坊した。家を出発する予定の時刻に目覚めた私は、急きょタクシーを呼び、何とか飛行機に間に合ったが、先が思いやられる始まりとなった。滞在は前回同様ユース・ホステル。私は多くの出会いがあるユース・ホステルが好きだ。今回も同じ部屋だったメキシコ人やスペイン人と友達になり、バーに行ったりして楽しんだ。観光は自由の女神やブロードウェイといったおなじみのコースを回り、エンパイア・ステート・ビルディングの美しい夜景をひとりで見るという罰ゲームも勝手に行った。

7カ月間の成果は「出会いの多さ」として表れた。お店や道での何気ない会話や、ルームメイトとのやり取りなど、自分がストレスを感じることなく英語でコミュニケーションを取っていることに気が付いた。前回の旅では、とにかく英語力を上げようと、ユース・ホステルで出会った人に片っ端から話し掛け、無理やり出会いを作っていたので、少しは成長したかなと思った。

ニューヨークを楽しみつくして帰りの飛行機に乗ったが、シアトルに着きホストマザーに連絡を取ろうとしたところで気がついた。あれ、 携帯がない。実は留学中に携帯電話を失くしたのは2度目。……やっぱり、私は留学前と何も変わっていなかったのか!?

現在私は、日本で絶賛就活中。自分の人生を見直し、これから何をしていきたいのか、自問自答の日々だ。その中で、シアトルで生活した7カ月間が与えた影響は本当に大きい。初めての海外にサウジアラビア人だらけの学校、ひとり旅にインターン。7カ月間を、持て余すことなく充実させた。

すべてのきっかけは「行動力」にあると思う。出会い、壁、成長。やってみたらなんとかなった。この等身大の実体験が、これから留学する人、そして留学中のみなさんのヒントになっていたらうれしいと思う。

(2013年2月)

Fumika Kaji
都内の大学に通う21歳。アイドルとバスケと食べることが好き。大学では日本文学を専攻するが、海外に興味を持ち留学を決意。初めての海外、そして言葉の壁に戸惑いながらも7カ月間の留学生活を12年3月に終えた。「人生楽しんだもの勝ち」をモットーにシアトルでも日本でも奮闘!