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ルイス&クラーク探検隊二百年紀(前編)

アメリカ・ノースウエスト自然探訪2005年04月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

アメリカの独立後20余年、第3代大統領トーマス・ジェファーソンは次々と新しい国づくりの手を打っていった。
彼の命による西部への探検行は、以後、この国が爆発的に発展する導火線の役割を果たすことになる。
今回は「ルイス隊長と行く『大ノースウエスト自然探訪』」キャラバンの前半。

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▲ちょうどこの岸辺から探検隊一行が出発した。ミズーリー河は、長さではアメリカ第2位の河川。河口はセントルイスでミシシッピー河に注いでいる。ちなみに第3位はコロンビア河で、海まで注ぐ河としては第2位となる
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▲この砦は探検隊の出発準備や隊荷の集積を行う場所としてのほか、宿舎、作業場、隊事務所として用いられた。建物の中では当時の出で立ちをしたボランティアが装備などの解説を行う


町を買いに行ったら国が付いてきた

19世紀初頭の北米大陸では、ヨーロッパ列強各国が入り乱れての領地の取り合いが佳境に入っていた。1802年、スペインはそれまで領有していたミシシッピー河流域にあるルイジアナ・テリトリーをフランスへ譲渡した。船が物流の主役だった当時、河川は現代のハイウェイ網に相当し、建国して間もないアメリカは、中西部の農産物をミシシッピー河口のニューオーリンズ港から積出していた。もし、フランスがこの港を封鎖することになれば、アメリカの命脈は断たれる。「ミシシッピー河を自由に通りたい」。ジェファーソン大統領はフランスからこの港町を買えないかと考え、その交渉役にジェームズ・モンロー(のちの第5代大統領)をパリへ派遣した。相方のフランス外相タレーランの返事はなんと「いっそミシシッピーからロッキー山脈までのルイジアナ全域を買っては?」というものだった。モンローは慎重に交渉を進め、結局1エーカー4セントで当時の国土より大きい土地を手に入れるという、史上最大の不動産取引を成立させた(※1)。独立宣言を書いた建国の祖ジェファーソンの卓見を見るのはこの時である。

1803年の建国記念日の前日にルイジアナ買収が発表されたが、その翌々日にはもうメリウェザー・ルイスが探検隊準備のためセントルイスへ向かっていた。ルイスは29歳の陸軍大尉で、ジェファーソンの大統領就任以来の私設秘書だった。

当時のアメリカの人口は500万人余り。住民の3分の2は東海岸から50 マイル以内に住んでいた。しかし、早くから大陸の西側、未知の西部に対し並々ならぬ関心を抱いていたジェファーソンは、ルイスに次のようなミッションを託す。

「ミズーリー河の源流へ遡行し太平洋へ抜ける水路を発見せよ。いずれ我国の交通と通商に使われるであろう大陸横断のルートを」。

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▲ルイス&クラーク探検隊の成功に大きな貢献をしたショショニ族の少女サカジャウェア。アメリカは2000年、息子を背負った彼女のレリーフを新1ドル・コインのデザインに採用し、その知恵と勇気を称えた
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▲アメリカ野牛、1800年当時は中西部から西に広く棲息していたが、フロンティアの西進と共に乱獲され、一時は絶滅の危機に瀕した。イエローストーンNPで撮影
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▲「The Lewis and Clark State Historic Site」のミュージアム内に設置してある原寸大のボート。縦半分に切ってあって、内部がよくわかるようになっている。樽に詰めた食料や野営用具なども展示してある


絶妙のコンビ西へ

ルイスがまっ先にしたのは西部地域のエキスパート、ウィリアム・クラーク大尉をパートナーに起用することだった。内省的で熟考タイプのルイスに対し、クラークは外向的、現実的な性格である。ルイスの申し出にクラークは二つ返事で応じた。後世に「ルイス&クラーク」といつもワン・ワードで称される絶妙のコンビがここに誕生した。

ミズーリー河がミシシッピー河に注ぐセントルイスの郊外に砦が設営され、出発の準備が進められた。食料、野営用具、ネーティブ・インディアン各部族への贈り物(装身具、針やナイフ、鋏など)のほか、医薬品、銃、弾薬、コンパス、望遠鏡、地図、本、記録用具などがそこへ集められた。その合間にルイスは天文、植物、鉱物、医薬品、そして船の航行や博物学の知識を詰め込んだ。クラークは地理学、特に地図の作成に天性の才能があった。

1804年5月14日、竜骨船を含む3艘の船(※2)に10トンの隊荷が積み込まれ、ルイス&クラーク探検隊はセントルイスを出発した(※3)。道のない所を行く当時の旅はもっぱら川旅である。船は帆走もでき、追い風で30マイル進める日もあったが、分水嶺までは流れを遡る旅だ。急流、浅瀬、倒木などがあって思うようには進めない。オールで漕いだり、川底を押したり、岸からロープで船を引いたりして、一行は1日平均15マイルのペースでミズーリー河を西へ、ひたすら源流を目指して遡った。隊のもうひとつの使命は、旅の途上で出会ういろいろな種族のネーティブ・インディアン達との友好、そして彼らについての記録であった。探検行を通じてそれはほぼうまくいった。行く先々で、一行は彼らと新鮮な食料と持参した品々とを物々交換できた。ネーティブの人達にとっては、それが初めて黒人を目にした時でもあった。このほかの重要な仕事には、当時まったくの未知の土地だった西部の動植物について、調べ記録することも含まれていた。見たことのない魚、鳥、動物は克明に記録された。とりわけ平原に棲むおびただしい数のバッファローは彼らにも、その後の西部開拓に向かうすべての人々にとっても、うれしい発見となった。

途上、盲腸炎の悪化と見られるフロイド軍曹の病死とその埋葬、スー族との一触即発の緊張した出会いなどもあり、波乱含みの往路の前半だった。

スーパーガール、サカジャウェア

1804年10月下旬に一行は、ミズーリー河畔のマンダン族の集落に入った。現在のノースダコタ州ビスマークの北30マイルほどの地点である。川岸はすでに凍り、雪も降ってきた。彼らはここで越冬することに決め、砦を築いた。この地でルイスとクラークは、フランス人の猟師トゥッソー・シャルボノーとその妻サカジャウェアと出会う。ロッキー山脈一帯のショショニ族の娘だったサカジャウェアは10歳の時、一族の者と山脈を越えて東へ行っている時に他部族に襲われた。仲間は殺され、ひとり捕らわれた彼女は、やがてシャルボノーに売られ、後日彼の妻となった。探検隊一行がマンダン集落に着いた時、サカジャウェアは16歳で身籠っていた。時にはマイナス50°Fにも冷え込む寒い冬だった。

年が変わり1805年2月11日、彼女は難産の末に男の子を産んだ。ルイスによりジーン・バプティステ(Jean Baptiste)と名付けられたその赤ちゃんは、隊員達にパンプまたはパンピー(Pompy)の愛称で呼ばれ可愛がられた。一行は晴れた日にはカヌーを作り、春の出発に備えた。

1805年4月初め、探検隊はそれまでに収集した動植物などの標本や記録などを竜骨船に積んで、セントルイスへ返した。再び西へ向かう一行に、シャルボノー、まだ首も据わらぬパンプを背負ったサカジャウェアが加わった。彼女は一行が行く山脈の向こうまでの土地勘があり、マンダン語のみならずショショニ語を話すことができた。彼女は行く先々の道を案内し、原住民との交渉と通訳に、探検隊にとって願ってもない存在であった。

その後のロッキー越えは辛い道のりだった。隊の中にあって利発な少女と赤ちゃんの存在がどれだけ皆の心をなごませ励ましたであろうか。山懐深くへ入り、隊の食べ物がなくなった時には、サカジャウェアが食べられる野草を探し集めてきた。

ルイスの日誌には繰り返しサカジャウェアの聡明さと活躍、彼女への感謝が述べられている。

ミズーリー河の本流を辿って

一行は西へ、現在のノースダコタからモンタナへとミズーリー河を辿っていく。河は何カ所かで支流を分け、彼らはその度に偵察隊を出し、本流を探さねばならない。マンダンの部落から竜骨船を返したのは正しい判断だった。長大な滝が行く手に立ちはだかり(現モンタナ州グレートフォールズ)、ボートを岸に引き上げて17マイルも徒歩で進まねばならなかった。この辺りの通過に一行は1カ月を要した。セントルイス出発から1年2カ月を過ぎても、彼らはまだロッキー山脈を見ていない。隊を率いるルイスの焦りは次第に募っていった。

1805年7月25日、ミズーリー河が3つに分かれる地点に到達した。現モンタナ州ヘレナの南に当たる。この辺りを地図で見ると彼らは大陸分水嶺(Continental Divide) のすぐ近くまで到達していることがわかる。しかし、山脈と谷は幾重にも複雑に入り組み、分水嶺も同様だった。ここでも彼らは本流を見極めるために、それぞれの流れを遡行した。さらに上流に行くにつれ、川は狭く浅くなり、次第に船での溯上が難しくなっていった。この探検行中、もっとも苦しいのはこの辺りからだった。隊の面々がけがと病気に苦しめられていた。

8月12日、ミズーリーの源流に辿りつく。そこでようやく分水嶺を越すのだが、どちらの方角を向いても山また山。それがどこまでも続いている(※4)。ルイスは前途に不安を覚えた。果たしてロッキーの山並みを抜けられるのだろうか? 一方、サカジャウェアはその時、おぼろげながらも懐かしい思いに、次第に浸されていった。彼女が生まれ育ったショショニ族の部落が、その先にあった。(次号に続く)

■注釈
※1. ルイジアナ全域:面積134万平方キロ、中西部以西の現13州に当たる土地を総額1500万ドルで購入した。
※2. 竜骨船を含む3艘の船:幅2.4メートル、長さ16メートルの竜骨船(Keel Boat)と2艘の小型船。竜骨船は当時ミシシッピー河で使われていた小型の貨物船である。竜の背骨のようなキール(keel)とあばらのような横架材が船の骨組みとなっているところから 「竜骨船」 と称される。上流では、丸太をくり抜いてカヌーを作ったり、山越えでは馬を使ったりした。※3. ルイス&クラーク探検隊:2名の大尉(ルイス&クラーク)、4名の軍曹、23名の兵隊、クラークの従卒で黒人のヨーク(York)と水夫の総勢32名。このほかにルイスが飼うファウンドランド犬のシーマン(Seaman)が同行(?)した。途中フロイド軍曹が病死し、マンダンから西ではシャルボノー一家(トゥッソー、サカジャウェア、ジーン)が加わった。※4. 分水嶺:アイダホ・モンタナの州境のレミィ・パス(Lemhi Pass)。標高2247メートル

Information【ルイス&クラークの旅を辿るスポット】
■Jefferson National Expansion Memorial
セントルイスのシンボル。ステンレス製の大アーチ(193メートル)の中にはエレベーターが通じていて、上端の展望台へ上ることができる。地上部分はミュージアムとなっていて、ルイス&クラーク探検隊やジェファーソン大統領の業績、西部開拓の足取りなどの展示が大変充実している。国立公園局の運営。
ウェブサイト:www.nps.gov/jeff
■The Lewis and Clark State Historic Site
探検隊が1803~1804年にかけてセントルイス郊外に設営した「Camp River Dubois」。通称「Winter Camp」。当時の砦のレプリカが屋外にあり、展示館には竜骨船のレプリカや隊荷などの展示がある。探検隊出発・帰着地を代表するミュージアム。イリノイ州立公園となっている。
ウェブサイト:www.campdubois.com
■Lewis & Clark National Historical Trail
連邦政府は1978年、セントルイスよりアストリアまでの11州、往復8,000マイルにわたるルイス&クラーク探検隊のルートを「National Historical Trail」として整備、保存することを決めた。3種類のトレイル(Water Trail、Land Trail、Motor Trail)と沿線の83カ所の連邦・州の公園で構成される。
ウェブサイト:www.nps.gov/lecl/index.htm
【書籍】
『アメリカの空へ 大探検を助けた少女サカジャウェアーアメリカ建国史にのこる伝説の少女の物語ー』
ケネス・トーマスマ著 西江雅之監修
加原奈穂子訳 出窓社
本書はルイスとクラークの日
Reiichiro Kosugi

1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。

エコ・キャラバン写真サイト:http://c2c-1.rocketbeach.com/ ̄photocaravan