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飛行機と木(後編)

アメリカ・ノースウエスト自然探訪
2007年03月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

人類が空を飛んで以来、人と空を結んできた木。
後編では、北西部の空のこと、そして、
日本とのつながりについて思いを巡らす。

ジニーとシリア

ハイイロオオカミ
▲アラスカ州のマッキンリー(デナリ山)を背後にして、氷河の上を飛ぶ。ジニーとシリアはかつてこの山の上空を、我が庭のように飛んだ
ハイイロオオカミ
▲眼下に果てしなく広がるツンドラの湖沼地帯。人を圧倒するその自然の大きさが、多くのブッシュ・パイロットをアラスカ州の空に引き付ける
ハイイロオオカミ
▲アストリアの西にある、フォート・スティーブンス州立公園内の砲台遺構


北西部(オレゴン州とワシントン州)生まれのふたりの女性アビエイターについて触れたい。星野道夫に心酔する隊長は、当コラムでアラスカ州や動物がテーマとなると、彼の著作を再三引用する。初めて読んだのは、遺作のエッセイ集『ノーザンライツ』だった。その冒頭は、第二次大戦後のアラスカ州の空と山のパイオニアであるふたりの女性パイロット、ジニー・ウッド(1917年オレゴン州モロ生まれ)、シリア・ハンター(1919年ワシントン州アーリントン生まれ)の冒険譚で始まる。※1
リンドバーグが初の大西洋無着陸単独飛行に成功したこの時代、北西部に生まれたふたりの少女は空への憧れと共に育ち、飛行機の操縦を覚える。太平洋戦争中、ふたりは空軍機を工場から前線基地へ空輸する任務に従事した。終戦の年の厳冬期に、ふたりはシアトルからアラスカ州へ飛ぶ。機体に大きな穴が開き、ヒーターも無線も壊れているボロボロの中古機をフェアバンクスへ届ける命懸けの仕事だった。その後、ふたりはアラスカ州に移り住み、晩年、フェアバンクスに家を建てた星野と交友が始まる。このエッセイ集は、星野がふたりの住む丸太小屋を訪ね、聞き語りをした形でつづられていく。
最後の2編のエッセイは、星野が老境のジニーとシリアを思い出の川下りへ誘った紀行文である。旅の前半を書いたところで、星野はカムチャッカで取材中にクマに襲われ亡くなる。これが絶筆となった。後をシリアが引き取り、紀行文の後半を書いた。そのシリアも2001年の冬、フェアバンクスで永眠した。ミレニアムと共にアラスカ州のひとつの時代が画された。星野が書かなければ、私達は北西部出身のふたりのパイオニア女性アビエイターを知ることもなかっただろう。今でも、空を飛ぶ、それも手付かずの原生自然の大空を飛ぶ、というプリミティブなロマンは、カナダやアラスカ州のブッシュ・パイロット達の間に綿々と受け継がれている。※2

ハイイロオオカミ
▲太平洋戦争時に造られた、対艦砲の砲台の観測所
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▲21世紀の旅客機、ボーイング787型機(愛称:ドリームライナー)の実物大の胴体部分。使用される炭素繊維は、日本のメーカーが製造を担当する


北西部、飛行機、日本

シアトル・タコマ空港とポートランド空港には毎日、日米を結ぶ直行便の大型旅客機が発着している。世界の多くの人々が北西部の空を行き来する、活気ある空港の眺めだ。
しかし、飛行機の発展というテーマに沿って米北西部と日本とのつながりを過去へたどると、そこには忌まわしい戦争の足跡がくっきりと見て取れる。米本土からは日本に一番近い北西部であるから、それはいわば地勢学的宿命というものだろう。
2001年9月11日、同時多発テロのニュースで「アメリカ本土が初めて他国から攻撃された……」と、何人かのキャスターが口にしていたけれども、それは間違いである。アメリカ独立後の1812年にイギリス軍艦がアメリカ本土の米軍基地を攻撃しているのが最初で、その後は日本軍が5回(作戦数)、米本土を攻撃している。
太平洋戦争中に日本軍が飛行機で米本土を攻撃したのは1942年の9月。潜水艦の艦載小型水上偵察機が2回、オレゴン・コースト南部の森林地帯に焼夷弾を投下している。山火事を誘発しようという作戦であったが、折悪しくの(?)雨天のために火はすぐ消えた。ささやかというか、みみっちいというか……そういう攻撃だった。※3
日本軍の艦載機だけでなく、潜水艦からの砲撃も行われたため、コロンビア河口にあるアストリアのフォート・スティーブンス要塞には1942年に日本艦船を砲撃する対艦砲が設置された。北西部の片隅にある、日米史を裏付ける──今の子供達に「お祖父ちゃんらの時代に日本とアメリカは戦争をしてたんだぞ」という──残滓である。フォート・スティーブンスのBattery245に配備された6インチ砲は終戦時に撤去され、後年、史跡用にとそれに近い口径の5.5インチ砲が設置された。
飛行機を使った攻撃のほかにも、日本はアメリカ本土に対して「風船爆弾」攻撃を行った。これは、上空のジェット気流を使い、日本からアメリカ上空へ気球を飛ばしアメリカ本土で爆弾を落下させるという兵器(代物)である。気球とはすなわち和紙をコンニャク糊で貼り合わせた直径10メートルほどの大きさの風船だった。見事につましい武器だが、軍部は大真面目で、この爆弾を9,000個以上飛ばした。山火事など、実際に多少の「戦果」はあったようだ。オレゴン州では民間人がこの爆弾のために亡くなっている。実は隊長の高校時代、物理のH先生が「私は戦時中に風船爆弾の設計の仕事をさせられていた」と授業中に語っていた。当時の人々には申し訳ないが、歴史の因果をあちら側とこちら側とで付き合わせることは興味深いものである。
太平洋戦争の末期に人類未曾有の悲惨な攻撃が日本に対して行われた。広島と長崎への原爆の投下である。ふたつの爆撃に使われたB-29爆撃機は、ワシントン湖畔のボーイング社レントン工場で造られた飛行機だ。そして、長崎に投下された原爆原料のプルトニウムは、ワシントン州のハンフォード核燃料工場で生産された。この工場は、当時冷却水をコロンビア川から採取していたが、放射能汚染された水を未処理のまま川に流していた。
ワシントン湖畔で造られ、原爆を投下した2機のB-29は現存する。広島に向かったエノラ・ゲイ機はバージニア州チャンティリーのスミソニアン航空宇宙博物館新館に、長崎に向かったボックスカー機はオハイオ州デイトンの米空軍博物館に、それぞれ使用された原子爆弾のレプリカと共に展示されている。北西部と日本の関係のおぞまし過ぎる因果が思い起こされ、歴史の暗部を見ている気がする。どうしても気が滅入ってしまう。
さて、2008年から就航する新鋭旅客機、ボーイング787はエベレット工場で生産されるが、機体の約3分の1は日本のメーカー(三菱重工業、川崎重工業、富士重工業)が部材を造り、ボーイング社に納入する。また、新世代の飛行機の機体材料として787で全面的に使われる炭素繊維は、これも日本の東レが製造納入する。最初の50機を発注したのは全日空である。
今、北西部と飛行機と日本の関係は、こうして平和の局面で新しい展開を見せている。

空に向かうフロンティア

「……空を飛ぶということは何か魔法のようなものだった」(シリア・ハンター/ノーザンライツ)。この1世紀、飛行機が驚くほど発達した要素には、もちろん戦争と経済が挙げられるけれども、果たしてそれだけだろうか? シリア・ハンターの言葉が大きな残りの部分を語っている。
人類がその可能性の突出口を新大陸に求めた19世紀。北米の西部があらかた開拓され、地理上のフロンティアはアラスカ州だけになってしまった20世紀。その初頭に飛行機が発明されたことは、何か象徴的だ。一群の人々は水平から垂直へと可能性の突出口を向けたのだった。
変わり者、夢想家、道楽、冒険家……。その初期の人々は世間からさまざまな「至極真っ当な」評価を受けたであろう。ライト兄弟、ボーイング、リンドバーグ、ハワード・ヒューズ、シリアとジニー。ここに挙げた群像は、ほんのわずかに過ぎない。たくさんのヒコーキ野郎達が大空に夢を描き、それを追った。ある者はそれを実現し、多くの者が命を落とした。空を飛ぶ喜び、空のサクセス・ストーリー(名声、富、栄誉……)には、いつも「死」の影があった。それが生のきらめきの代償だったのである。
木が空を飛んでいたころ、飛行機はロマンそのものであり、空から木が消えるころ、ロマンが表舞台から去った気がする。飛行機がロマンだった時代の最後の象徴が、ハワード・ヒューズが飛ばせた史上最大の飛行機、スプルース・グースではなかっただろうか?

※1 アーリントンはエベレットの北に位置する。I-5のスモーキー・ポイント・レスト・エリアの近くに、日本向けの生産をしたこともある小さな製材工場がある。隣には、これも小さな飛行場があり、小型自家用機が発着している。シリアが働いた製材工場と、操縦を習った飛行場はここであろうと思われる。
※2 ブッシュ・パイロットとは、カナダやアラスカ州などの辺境の地を小型機で飛ぶ経験と度量と技術を兼ね備えたベテランのパイロットのこと。飛行技術はもちろんのこと、気象、山岳、地理、自然に対する高いレベルの知識を必要とされる。コマーシャル・フライトのパイロットからも一目置かれる存在。
※3 戦後、この攻撃機のパイロットだった藤田信夫飛曹長は、オレゴン州ブルッキングスから「唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として名誉市民号を贈られる。藤田氏はその後、終生を日米友好に尽くした。

Information

■ノーザンライツ
星野道夫の遺作となったエッセイ集。冒頭の2話(「ジニーとシリアの空」と「アラスカの空」)で、北西部生まれのふたりの女性が、ほとんど冒険のような空の旅を経てアラスカ州にたどり着くまでを、ふたりの語り口を通していきいきと描いている。このほかに、その後のジニーとシリア、星野道夫を交えた人間模様を横軸に現代史も取り入れ、アラスカ州に生きたパイオニア時代最後の人々のエピソードがつづられている。人を愛する星野の深い眼差しと筆致は、彼の作品の最高到達点と言って良い。
ウェブサイト:www.shinchosha.co.jp/book/129522/

■フォート・スティーブンス州立公園
アストリアの西、コロンビア河口の南岸に位置する。オレゴン州の州立公園中、規模、キャンプ場の収容人員は最大規模。森林、海岸、湖と、とても遊びどころ、見どころの多い公園。ここに、南北戦争時代の1863年から太平洋戦争直後の1947年まで、コロンビア河口を守っていた砲台の跡がある。隣接する軍事博物館では、太平洋戦争初期にアストリアに対して行われた日本軍の攻撃に関する展示が行われている。
Fort Stevens State Park
ウェブサイト:www.oregonstateparks.org/park_179.php

Reiichiro Kosugi
1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。ウェブサイトをリメイク中。近日公開予定。