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時の大河が流れるアストリア周辺

アメリカ・ノースウエスト自然探訪
2007年06月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

コロンビア川が海に注ぐところでは、水と空と大地が茫漠と広がる。
人間の印してきた足跡はまるで小さくて、それすら時の流れに洗われていくようだ。

アストリア橋
▲「大河」と呼ぶにふさわしいコロンビア川の河口をまたぐ最下流の橋、アストリア橋。全長4.1マイル(6.6キロ)の2車線の道路橋で1966年に完成した。この橋ができるまで両岸はフェリーで結ばれていた

200年目の火事

国道101号線
▲橋の開通で国道101号線は米最西端の国境をなぞる形で全線が結ばれた。有料橋だったが当初の計画より2年早い1993年に橋の建設費を償還し、以後通行は無料である。現在も料金所ブースの屋根が残っている
フォート・クラットソップ砦
▲周囲の林からダグラス・ファーを切り出して再々建されたフォート・クラットソップ砦
6インチ砲
▲太平洋戦争末期に日本艦船の来襲に備えて設置された6インチ砲


「大陸の分水嶺を越え太平洋に出よ」

それが、独立後間もない時期に合衆国大統領ジェファーソンからルイス&クラーク探検隊に下されたミッションだった。1805年11月、一行34名は出発から1年半の苦難の末、ロッキー山脈を越え太平洋にたどり着く。

探検隊はコロンビア川の河口の地、すなわち現在のアストリアで冬を越すことにした。ダグラス・ファーの森の中に砦を築き、この地の先住民の部族名にちなんで「フォート・クラットソップ」と名付ける。1805~1806年の冬の4カ月間、彼らはアストリア周辺の地理を調べ、地図を作り、帰路の旅支度を整えた。彼らが起居したフォート・クラットソップ砦は森の中でやがて朽ち果てたが、1955年に往時の砦の姿に忠実に復元されて国定史跡に指定される。国立公園局は実際の彼らの越冬地という地の利を生かし、ビジター・センターを中心にルイス&クラーク探検隊の当時の様子を再現、充実したインタープリテーション(解説)を続けてきた。それから半世紀、このアメリカ建国史の貴重なモニュメントにはたくさんの人々ーー大人も子供達もーーが訪れた。隊長も夏休みの1日、一家で訪れたことがある。2005年はルイス&クラーク探検隊の二百年紀。10月にフォート・クラットソップで、その記念式典が行われる予定だった。だが式典の1週間前の10月3日未明、建物の一部から火が出て砦は半焼する。それから約1年後、延べ700人のボランティアの手によって2006年12月にフォート・クラットソップ砦は再々建された。今回は火災探知設備を備えているそうだ。※1

フラーベル邸(Flavel House)
▲1886年に建てられたクイーン・アン調のフラーベル邸(Flavel House)
英帆船ピーター・アイルデール号の残骸
▲アストリア周辺の海は難所コロンビア・リバー・バーとして知られる。1906年に座礁した英帆船ピーター・アイルデール号の残骸


海の難所、地の要衝

ルイスとクラークの一行がコロンビア川を下って太平洋岸に到達しても、山越えのルート(オレゴン・トレイル)で入植者達が西部に入ってくるのは、それからさらに30年余り後である。18世紀から19世紀の初頭、遠路を人々が移動する際のいちばんの交通手段は船であった。往時も今も、アメリカ西海岸で大洋から内陸へ大型船を乗り入れることができる唯一の水路がコロンビア川である。入り口に位置するアストリアが西部でいちばん歴史が古い街である理由は、近代からここが西部における内陸への玄関であり、交易の窓口にもなったからである。20世紀に入り、この港町は水産(サーモンの缶詰工場)や木材輸出の拠点としてさらに栄えた。アストリアには19世紀末の豪勢なビクトリア調の住宅が多く残っており、そのころの繁栄をうかがうことができる。

しかし20世紀の後半からは、通商の拠点は次第に川の上流、ロングビューやさらに上流のポートランドへと移っていった。

日本列島の南岸を洗う黒潮は北太平洋を東進し、北米大陸に達したのち南北に分かれる。ワシントン・オレゴン両州の西岸沿いには、北から南へこの暖流が流れている。この潮流を分断して膨大な水量のコロンビア川が注ぎ込んでいる。潮の流れは複雑極まり、船にとって危ない波が立つ。ただでさえ強風で海が荒れるのに、冬場にはいつも濃い霧が出る。しかし、どの船もこの海域を通らねばコロンビア川へ入って来られない。このコロンビア・リバー・バー(Columbia river bar)と呼ばれるアストリア周辺の海域は、昔も今も有数な海の難所として知られている。その海底には、過去200年の間に2,000隻以上の大型船が沈んでいる。それゆえアメリカ西海岸で最古の灯台がアストリアの対岸ワシントン側の岬ケープ・ディサポイントメント(Cape Disappointment)にある。沿岸警備隊(U.S. Coast guard)はその灯台直下のコロンビア・リバー・バーへすぐに出動できるよう、最短の位置に基地を置いている。

米西岸の要衝
▲アストリア周辺は近世から現代にかけ米西岸の要衝の地であった。南北戦争から太平洋戦争の時代までこの地に要塞が置かれていた


今は昔の砲台跡

オレゴン・テリトリーの領有がまだいずれの国にも帰していない19世紀から、当時の列強国は大型船でコロンビア川を出入りしていた。※2交通、通商の要として発展したアストリア周辺の地は当然軍事面の要衝の地であった。合衆国政府は南北戦争の最中、この地に要塞フォート・スティーブンス(Fort Stevens)を築く。要塞にはスペインとの戦争(米西戦争)以降、第一次、第二次世界大戦の終わりまで砲台が置かれた。各砲台はバッテリー(Battery)と呼ばれ、それぞれの砲台に番号が付けられていた。太平洋戦争初頭、日本軍は北東太平洋岸でアメリカに対する攻撃作戦を行った。アストリア周辺には3回の砲撃と爆撃が加えられた。このため3つの砲台がこのコロンビア川の河口に構築され、それぞれ6インチ(15センチ)口径の対艦砲が配備されたのである。バッテリー245がフォート・スティーブンスに、バッテリー246がコロンビア川対岸の正面のフォート・コロンビア(Fort Columbia)に、バッテリー247がフォート・キャンビー(Fort Canby)に置かれた。

しかし3砲台ができ上がるころ、日本軍の敗色はすでに明らかだったため、これらの砲が実戦に使われることはなかった。終戦に伴い軍は各砲台の6インチ砲を撤去した。バッテリー245の置かれた場所は後年、史跡として、今私達が訪れることができるフォート・スティーブンス・オレゴン州立公園となった。フォート・コロンビアのバッテリー246はシールド(砲塔)が据え付られただけの状態で終戦を迎えた。戦後しばらくしてフォート・コロンビアはワシントン州の州立公園となった。1993年、砲台着工から半世紀経って、当初配備予定だった6インチ砲が届けられた。当時、世界に残っていた同型の砲は6門だけであった。そのうちの2門である。

吉村昭氏のこと

昨夏、日本からのグループとアストリアを訪れた時のこと。この街で生まれた日本で最初の英語教師ラナルド・マクドナルド※3の話になって、「ラナルドを日本で紹介した作家の吉村昭さん……」と隊長が話し出したところ「ああ、先日亡くなった方ね」とひとりの女性から声が上がった。「え?」。驚いた隊長の元へ、後日その女性から新聞の切り抜きが届いた。吉村氏を看取った、夫人で作家の津村節子さんがお別れの会で参列者に報告した記事であった。※4

吉村作品には歴史に題材を求めた小説も多かったが、司馬遼太郎を天を駆ける歴史作家とすると、吉村昭は深く大地に根ざした歴史作家と例えることができるだろう。執筆の題材を絞り込んだら、こつこつと史実を集め、丹念に取材し緻密な筆致で書いた。「彼ほど史実にこだわる作家は今後現れないだろう」と言われた。歴史小説の一方で、氏は自らの壮絶な人生体験に根ざした死生観を投影した小説をも物している。人間の機微を熟知していながら、この謙虚な作家は主観の心理描写を書かない。客観の事実をこつこつ積み重ね、人の心のひだが自ずと描き出されるという作風だった。

今、隊長の手元に彼の署名が入った1冊の本『海の祭礼』がある。扉表紙の裏に、三鷹・井の頭の消印で吉村さんからのエアメールが挟んである。以前地元紙『オレゴニアン』に載ったラナルド・マクドナルドの記事を氏に送ったことに対する、簡潔だが丁寧な礼状だ。吉村昭氏はまさにこの礼状から伝わる通りの真摯な作家であった。

※1 出火の状況からエコ・テロリズムと呼ばれるものと同類の放火と推察されている。この砦を初めて見た時の隊長の率直な印象は、「探検隊一行が越冬するには砦という形にせざるを得なかったのだろうか? わずかの人数で、先住民から食料など分けてもらうのに……。こんな丸太の砦では風の日に火がつけばおしまいだろうに」というものだった。半世紀前に再建され、二百年紀前に半焼した建物はそれがそのまま、「初めに砦ありき」の考えがあり、「その非を問う」という人々がいるという、ありのままの合衆国を伝える歴史教材になるはずだった。半焼のまま残すべきだったと隊長は思う。再々建とは惜しいことをしたものである。
※2 オレゴン・テリトリーは現在の北西部一帯(オレゴン、ワシントン、アイダホ、モンタナ)を指す。列強国とは欧州列強、すなわちイギリス、スペイン、ロシア、そして新興国家としてのアメリカの4カ国である。
※3 『ゆうマガ』2003年1月号「キャラバン#7 アストリアで近代史探訪」(www.youmaga.com/odekake/eco/2003_1.php)参照。
※4 すい臓がんを患った吉村昭氏は自宅療養していた。妻・節子さんの語るところによると、延命治療を拒んでいた吉村氏は死の前日、点滴の管とカテーテルを自分の手で引き抜いた。死の直前まで遺作となる小説の推敲をしていたという。
【訂正とお詫び(隊長)】『ゆうマガ』2007年3月号「キャラバン#56 木と飛行機木(後編)」の記事に誤りがありました。今回の取材で勘違いに気付いたものです。1942年、フォート・スティーブンス要塞に日本艦船を砲撃するため配備された6インチ砲は終戦時に撤去され、10年ほど前に隊長が訪れた時に残っていた砲は、史跡用に設置された5.5インチ砲でした。今後一層気を付けて執筆していきますが、もし誤りがありましたらぜひ編集部経由で隊長へお知らせください。今後の執筆の参考にさせていただきます。

Information

■フォート・スティーブンス州立公園
オレゴンを代表する州立公園のひとつ。史跡フォート・スティーブンスを始め、コロンビア川河口、海岸線、野生生物観察地、大規模なキャンプ場、森林と湖、そしてこれらを巡る延べ14マイルのトレイルからなる。
Ft. Stevens State Park
ウェブサイト:www.oregonstateparks.org/park_179.php

■フォート・クラットソップ国定史跡
ルイス&クラーク探検隊の砦。1805~1806年の越冬地に当時の建物が再々建されている。
Ft.Clatsop National Memorial
ウェブサイト:www.nps.gov/lewi/planyourvisit/fortclatsop.htm

■フォート・コロンビア州立公園
コロンビア川河口右岸に1896~1947年まで要塞の置かれた場所。1950年よりワシントン州立公園に。
Ft. Columbia State Park
ウェブサイト:www.parks.wa.gov/parkpage.asp?selectedpark=Fort%20Columbia

■ディサポイントメント岬州立公園
旧名はフォート・キャンビー州立公園(Fort Canby State Park)。ワシントン州南西、ロングビーチ半島南端にある1,882エーカーの州立公園。素晴らしい眺望の高台にあるビジター・センターを要に、米西岸最古の灯台、史跡、キャンプ場とトレイルが配置されている。
岬の名「ディサポイントメント」は、1788年にコロンビア川の探索航海中、この岬沖を通過しつつ河口を見落とした英国人船長の失敗にちなんだ命名。河口は4年後の1792年に米国人船長ロバート・グレーにより「発見」された。さらに13年後、1805年にルイス&クラーク探検隊が源流からこの河口まで到達した。
Cape Disappointment State Park
ウェブサイト:www.parks.wa.gov/parkpage.asp?selectedpark=Cape%20Disappointment

Reiichiro Kosugi
1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。ウェブサイトをリメイク中。近日公開予定。