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こんな寿司屋に誰がした

こんな寿司屋に誰かした

第1回 寿司屋の跡取り

静岡県は焼津市という小さな漁師町で細々と寿司屋を営む両親の元で育った僕は、やはり寿司とは切っても切れない縁で結ばれていると思う。地方の田舎でよく見られる光景だが、うちの田舎も例外ではなく、外国人が道を歩いていると指をさして「外人、外人」と大騒ぎをするようなド田舎であった。そんな環境で育った僕が、まさかアメリカで店を持つようになるとは……。そんな人生を、今一度振り返ってみたいと思う。

3人姉弟の長男として生まれた僕は、小さいころから店を継ぐ跡取りとして育てられてきた。店を継いでさえくれたら良いと思っていたのかどうかはわからないが、「勉強しろ」などと両親から言われたことは全くなく、またそれを良いことにダラダラとした学生時代を過ごしていた。一度、高校生の時に「やっぱり、大学なんていうのも良いのでは?」と思い、その旨を伝えると、「そんな風に勉強好きに育てた覚えはない」と即却下され、確かにそうだよなとえらく納得したことを覚えている。

弱小家族経営の寿司屋にありがちなことだが、僕ら姉弟はいつも店のためにコキ使われていた。近所の出前持ちは当たり前で、箸袋に割り箸を入れる仕事は子供の担当部署だったし、寿司酢を作る砂糖がまだまだ高価だった当時は、スーパーに家族全員で行き、「1人1袋まで」という砂糖だけを買うために何度も長い列に並ぶこともあった(その後、「1家族1袋まで」という風に変わったが、うちの家族が原因なのかどうかは定かでない)。

幼いころは店と自宅が一緒だったのだが、道路事情などもあり、駅前(と言っても、やっぱり田舎)にテナントを借りて、新たに寿司屋をやり始めたころには高校生になっていたので、それまで以上に働かされた。平日は学校があり、平和だったが、週末は夜中の2時過ぎまで手伝わされるのはザラ。「早く運転免許を取れ」と妙に親らしいことを言うなと思ったら早速、出前の担当範囲が広がった。

しかし、その当時は、自分が異国の地で寿司屋を出すとは、微塵にも思わなかった。
(次号につづく)

第2回 寿司屋になった理由

酒好きの父は店が休みになると、まだガキの僕をよく飲み屋に連れて行った。「ここは大人が来る場所」という考えは全くなく、「ここは酒を飲む場所」という理由から、酒以外の飲み物はご法度というとんでもないルールが我が家には存在していた。「もっと飲め、もっと飲め」と勧める父も父だが、何も言わない母も母で、酒を平気で持って来る飲み屋の親父も親父だし、その酒をおいしそうに飲んでいた自分も自分である。まさに無法地帯の昭和がそこにあった……。「将来はアル中確実」と言われていたにもかかわらず、そうならなかったところは我ながらあっぱれである(ちなみに、僕の中にあるアル中の定義とは「アルコール欲しさに、みりんを飲み始める」レベルだということをお伝えしておく)。

飲み屋では決まってカラオケを歌わされた。特に、北島三郎や鳥羽一郎には人一倍思い入れがある。知らないガキの歌を聴きながら酒を飲むなんてまっぴらゴメン、と思うが、そこは田舎の漁師町の良いところ。それなりに盛り上がりを見せていたため、すっかり味をしめていた。小学校の文集には将来の夢として「歌手になる」と書いてあり(しかも絵付きで)、恥ずかしい限りである。

そんな僕も、中学生になると「おそらく寿司屋になるだろう」と思い始め、高校生になったころには何の迷いもなく「寿司屋になる」と決めていた。大人になった今、カラオケに行っても、誰ひとり歌が上手だと言ってくれないところから考えても、それは正しい選択だったと思わざるを得ない。とんだ赤っ恥をかくところであった。

両親は共働きで、もちろん週末も1日中仕事をしていた我が家では、親子のコミュニケーションがなかなか取れない。そこで、夏休みなどを利用して年に最低1回は旅行をするというのが慣わしだった。行き先はいつも、祖父の知り合いの板長がいる同じ旅館。幼心ながら、そこの料理が楽しみで、いつかこんな料理を作ってみたいと思っていた。それが、寿司屋になる夢につながったのだと思う。そして高校を卒業後、僕は調理師の専門学校に行くことになった。
(次号につづく)

第3回 専門学校へ

「板前の世界に入ったら、遊ぶ時間も金もなくなるから」と、板前としての先輩である父から粋なお達しが出て、高校卒業後は地元の専門学校に1年間行かせてもらえることになった。父が営む寿司屋は、駅前に店を移転してからというもの、当時のバブルに乗っかりビジネスがうまくいっていたのである。弟はそれを良いことに好き放題。オーストラリアに留学するなど、末っ子の特権を存分に生かしていた。当然、その後バブルは崩壊。その波はこの田舎町にも押し寄せ、たくわえもなく、のん気に過ごしてきた両親をも丸のみに。父は現在も老体にむち打って寿司屋を続けているが、投資され続けた弟は、“バブルの落とし子”として、現在もオーストラリアに。貸し倒れであることは一目瞭然である……。

調理師の専門学校には変わり者が多い。ユニークな学校行事もあり、中でも思い出深いのは、精進料理を寺でいただくというイベント。料理の前に座禅を組まされるのだが、あまりの静けさと緊張感からか、開始早々、隣のヤツがいきなり笑い出した。こちらまでもらい笑いをしてしまい、そして、たたかれればたたかれるほど、笑いが止まらなくなり……。自分の中のM度を確認できた貴重な経験だったが、本当に死ぬかと思った。

卒業前には友人達との卒業旅行のため、居酒屋のウエーターという学生向けの手頃なバイトを見つけ、水前寺清子似の女将の下、小づかい稼ぎを開始。しかし、3日目にその事件は起こった。こちらは「ナスの天ぷら」を注文したのに、厨房から出て来たのは「ハスの天ぷら」だったので、板前に作り直しをお願いすると、まず謝れと怒鳴られたのだ。オープン前のミーティングでチーター(女将)から、「ハスとナスは間違えやすいから、ハスの注文はレンコンで統一」と指示があったばかりなのに、この板前は聞いてもいない。こちらは謝る気など全くなかったので、その日に辞めた。
「こんなバカな板前にだけはなるまい」。このバイトでただひとつ学び、誓ったことだった。そして、専門学校を卒業後、東京に行くことになるのだが……。
(次号につづく)

第4回 上京

大都会、東京。地方に住む若者にとっては、高層ビルが立ち並び、芸能人がうようよしているイメージがある。ご多分に漏れず、僕もこの首都に憧れを抱いていた。
そんな東京に、以前この欄でも書いたことがある、祖父の知り合いで旅館の調理長だった人が店を出したというので、祖父に頼んで就職させてもらった。場所は、東京都西多摩郡羽村町(後の羽村市)。正直、驚くことだらけだった。
まず、東京に23区以外の場所があるなんて、恥ずかしながら知らなかった。うちの田舎だって“市”なのに、“町”って一体……と、首をかしげずにはいられない。そして、東京には03のほかに、4桁の市外局番が存在することにもびっくり。よくTV通販で「♪東京ゼロサーン~♪♪」と歌っているにもかかわらず、である。田舎の友達に電話番号を教えると、決まって「03じゃないの?」と言われたくらいだから、地方ではこの現実を知らない人が多いように思われる。
羽村でいちばん高いビルが3階というのも、うちの田舎と同等レベル。というか、そもそも東京だと名乗ってはいけない次元にあるのでは、とさえ思えた。しかも電車が2駅先からは単線になるなんて、田舎なだけに狐にだまされているんじゃないかと疑ってしまう。しかし、そんな田舎にある店でも、料理がものすごくおいしかったので、毎日大盛況の大忙しだった。
休みもまともになく、週に90時間近く働いているのに薄給だったので、僕はいらだちを隠せずにいた。バブルの時代だというのに、家賃やら保険料やらを引かれて手取りで月4,000円(信じられないでしょ?)。貧乏は人の心まで貧しくすることに気付いたのもこのころだ。同じ時期に上京した田舎の友達が、池袋で一緒に飲もうと毎週のように誘ってきたが、当時羽村から池袋までの電車賃は片道だけで610円もしたので、毎回断り続けなければならなかった。昔、父から「1貫100円の寿司を売って、金持ちになれるわけがない」とよく聞かされていたが、実際に働いてみて、板前なんて好きでなければやってられない職業だと痛感した。
そして、ここで4年働いたあと、やっぱり東京に来たからには都会で働こうと決意し、新たな1歩を踏み出したのだった。
(次号につづく)

第5回 新宿へ

小さいころから空気の悪いところに行くとものすごい頭痛になり、隣町の静岡に行く時ですらバファ○ンを手放せないでいた。根っからの田舎者体質なのだ。
そんなわけで、新宿で働き始めたのは良いが、最初の1カ月は毎朝バファ○ンを飲まなくては出勤できない状態だった。意地でも「03区域」に住みたかったため、新しいアパートは隣の駅から市外局番が03でなくなる練馬区の外れに決定。働きたい店ではすぐに働かせてもらえなかったので、紹介してもらった新宿のど真ん中にある店で当分お世話になることになったのだが、立地のせいか常に忙しかった。スタッフのうち数人はミャンマー出身で、ここで初めて日本人以外の人達と一緒に仕事をすることに。皆真面目で、よく仕事をするのには感心した。そのうち、仕事が終わった後は一緒に飲みに行くようになり、それはそれで楽しい毎日を送っていた。
そんなある日の飲み会で、彼らから大事そうにあるものを渡された。それは、いつもお世話になっているバファ○ン。彼らのひとりが小声で言う。「これは男性用の避妊薬だから30分前に飲めば大丈夫」。オイオイ、大丈夫じゃないだろうと事情を聞くと、数日前に歌舞伎町で入手したとのこと。改めて、都会は恐ろしいところだと実感……。彼らに、それは避妊薬ではなく鎮痛剤だと何回説明しても全く信用してもらえない。街中で薬を売っている見ず知らずの男の言うことはすぐ信用するくせに、一緒に仕事をしている自分を信じてくれないことに落胆した。結局、薬局に連れて行って、やっと納得したくらいだから、本当に信用していなかったんだと思う。
そして、ここで働き始めて何カ月か経ったころ、少しずつこづかいもでき、板前としてはお決まりのパチンコにハマり始めていた。今思えば、一体何が楽しくてあんなに朝から晩まで通い詰めたのか、わからないのだが……。閉店まで10分と言われてもやめられず、パチンコをしなければ落ち着かないほどのパチンコ中毒に陥っていた。まさか、このパチンコがアメリカに来るきっかけになるとは、当時の僕には思いも寄らなかった。
(次号につづく)

第6回 高級料亭の真実

寿司屋を営む両親は常に忙しかったので、僕ら姉弟は祖母に育てられたといっても過言ではない。近所でも評判の世話焼きばあさんだった祖母は、パンの耳はすべて切って出してくれたし、ミカンもきれいにむいて食べさせてくれて、魚に至っては一体何の魚だかわからないくらいに身だけが器に盛られていた。そんなわけで僕ら姉弟は、金持ちでもないくせして、パンの耳は食べられないし、果物は自分でむいてまで食べたくないし、魚は切り身以外箸をつけようともしない。その祖母は、僕が小学6年の時に他界。祖母がもっと長生きしていたら、おそらく僕は包丁を持つこともなかったと思う。
新宿の店で働くのにも慣れたころ、働きたいと思っていた店からやっと、人の空きができたとの連絡が入った。そこはお偉いさん達の御用達の料亭。玄関からして高級感が漂っており、京懐石を関東風にアレンジした料理も、何やら楽しそうだと思ったのだ。しかし、これでもかというくらい濃い味付けをする祖母に育てられた僕は、ここの薄味の料理を全くおいしいと感じられなかった。吸い物の味付けが濃いと何度も注意されたので、それではと面白半分で何も味付けしないで親方に味見してもらったところ、OKが出たのにはあきれた。うちの田舎では、こんな味を「上品なお味」などと言ってくれるような山の手の奥さまなど皆無であり、「味がしない」「薄い」はまだ良いほうで、口の悪い連中にかかったら「馬のションベン飲まされた」と言ってイチャモンをつけられるのが関の山である。
そして何と言ってもびっくりするのが、京懐石と共に餃子やコロッケが驚くほど売れるということ。偉い人達というのは、庶民が行くような定食屋やラーメン屋に入るのはプライドが許さないらしく、1個2,000円もするコロッケをこの店に食べに来るのだ。この話を聞いた時、かわいそうな連中だなとバカにせずにはいられなかった。
とにかく、味付けはおいしいとは思わなかったけれど、盛り付けなど関西風の仕事を覚えるには良い機会。それだけを勉強しようと心に決め、割り切って薄味で作った。けれども、いつからかこのうわべだけの高級感が、本当にバカらしく感じるようになってきていた。
(次号につづく)

第7回 転換期

祖父は、他人に迷惑を掛けるほどの大のバクチ好きだったらしい。父も賭け事は好きで、小さいころはよく僕も競輪に連れて行ってもらった。その息子がパチンコにハマっても、なんら驚くことはないであろう。
東京に来て最初の数年間は毎日、学生時代に習った帳簿を付けていた。それが、だんだん給料が増えるにつれやらなくなり、いつしかそんなことをしていたことすら忘れ、ふと貯金通帳を見ると全く残高がない。理由を知るべく再度帳簿を付け始めると、思った通り、いちばんの出費はパチンコで、その額は月に2万円以上! この時、あることを思い付いた。この2万円を貯金しても、すぐにまたパチンコに使ってしまうのは目に見えている。いっそのこと自己投資で習い事でもしようか、と。
候補は、パソコン教室、習字、そして英会話。弟がオーストラリアにいたため、なんとなく英語が身近に感じられたので、「とりあえず値段やその他もろもろを検討しよう」と、まず英会話スクールへ。説明だけ、というつもりが、勧誘上手のお姉さんに乗せられて、その場でサイン。検討するどころか何もわからないまま駅前留学することに。それが思いのほか刺激的で面白く、この決断が今後の人生をも変えることにつながった。
そんなスクール通いとは裏腹に、仕事は楽しめなくなっていた。ものすごく閉鎖的で、やくざのような調理師の世界がイマイチ好きになれずにいたのだ。「ここはひとつ、気分転換にオーストラリアにいる弟を訪ねよう」と、仕事を辞めて、1カ月間オーストラリアに行くことを思い立った。航空券だけ買い、弟には直前に連絡して驚かせようと思って知らせていなかったが、出発1週間前になって、弟の連絡先を聞こうと実家に電話すると、母から思い掛けない返事が。なんと同じ時期の1カ月間、弟は日本に帰って来るというのだ。しかし、今さらキャンセルしてお金が戻るわけでもない。結局、英語習いたての身でひとり、オーストラリアへと旅立つことに。
このオーストラリアへのひとり旅が、今まで自分が働いていた板前の世界がものすごく小さいところだと気付かせてくれた。そしていつか自分も、日本だけに限らず海外で働きたいと思い始めたのだった。

第8回 ホテル勤め

学生時代にスポーツをやっていた人は、理不尽な上下関係について何かしら経験があるだろう。僕もバレーボール部に所属し、下級生のころは「先輩がいなくなったらなぁ」と、不吉なことをいろいろ想像したものだ。
試合中に線審をしていた時、いきなり目の前で嫌いな先輩がひきつけを起こしたことがあった。監督から「舌を噛むといけないから指を突っ込め」と指示されたが、死んでもやりたくなかったため、代わりに線審用の旗を口に入れてやった。後に黄色い旗の先端が先輩の血で赤く染まっているのを見て、指を入れなくて本当に良かったと安堵したものだ。
オーストラリアのひとり旅から戻ると、新宿にあるホテルでの就職を勧められ、気は進まなかったが高給だったので、働くことにした。スタッフの数が多いのに、まずびっくり。しかし、働き始めてみると、くだらない上下関係のほか、ある事実に気付いた。僕のような中途採用のよそ者グループと、ホテルの従業員として日本食に配属されたホテル組という“派閥”の存在だ。朝食サービスのために交代で泊まり込んで仕事をするのだが、このホテル組の先輩と一緒になると、当然のようにいじめを受けた。そんなある日、ホテル組の組長の父親が亡くなり、その日が休みの者3人が代表として葬式に行くことに。僕を含め、そろいもそろってよそ者グループで、みんな文句ブーブーで葬式へ。「普段から後輩を大切にしないから、こういうことになるのだ」と、不謹慎だが全く冥福を祈る気にもなれない。
そして年末は、おせち料理作りに追われる。通常の仕事後に始めるので疲れもピークに達しており、仕事場はピリピリとしたムードが漂っていた。そんな中、偉そうに「俺が若いころは3日寝ないで仕事した」などと先輩の説教が始まるのだ。それは不可能だし、「段取りが悪いから寝る時間がないんでしょ」と心の中でつぶやいたが、口に出せばどうなるか学生時代の部活で嫌というほど経験している。もう黙々と仕事をするだけだ。両親からは「帰って来ないか」と切り出され、帰郷も考えるようになっていた。

第9回 麻酔

皆さんもこれまで1度は麻酔を使ったことがあるかと思う。痛い思いをしなくて済むはずのその麻酔が、もし効きづらい体質だったとしたら……?
東京から静岡の田舎に戻った僕は、のんびりとぬるま湯生活を送っていた。いつか海外で働きたいと思ってはいても、寿司屋の跡取り息子という立場では、なかなかその機会はつかめない。そんなある日、体に痛みを覚え、病院に行くことに。薬でも飲めば治るだろうと高をくくっていたら、腫瘍が疑われるので手術が必要とのこと。まさかの展開に驚いたが「局部麻酔を使うので、半日で済む」と説明され、少し気が楽になった。
後日、手術のために再来院するも、今まで手術を受けた経験がなく、手術室というものが恐ろしくてたまらない。医師や看護師も気分をほぐそうとしてか、やたら話し掛けてくる。まずは局部に麻酔を注射。一定量を打ったところで「今触っている場所に感覚がありますか?」と医師が確認してきた。思い切り感覚があったので「ハイ」と答えると、そんなはずはないのにと医師は首をかしげる。それではと、もう何本か打ったところで、もう1度確認。確実に触られている感覚があるのに申し出は却下され、医師の勝手な判断で手術は決行された。メスが入る。体に激痛が走った。痛いと言っているのに「もしかしたら痛がり?」などとのん気なことを言ってメスを入れ続ける医師。あまりの痛さに気が遠くなりかける。看護師の「先生、血圧が異常に下がり始めています」のひと言で本当に痛いんだと気付いた医師は、こんな状況なのに「もう切っちゃったから麻酔打っても外に流れ出ちゃうんだよね、もったいない」などとほざいている。「金に糸目はつけないからバンバン打っちゃってください」と懇願する僕。考えてみれば、親知らずを抜く時や胃カメラを飲む時も、麻酔が効かなくて死ぬかと思った。その記憶が蘇る。
結局、手術を途中でやめるわけにはいかないということで、体をロープでぐるぐるとベッドに縛り付けられ、地獄のような時間を過ごす羽目になった。この手術で、やりたいことは元気なうちにしかできないと痛感。翌日には、アメリカ行きを決意した。

第10回 旅立ちの時

「人の噂も七十五日」ということわざがある。都会はどうか知らないけれど、田舎モノは本当に噂話が大好き。そして、何かと余計な世話を焼く人種である。うちの田舎でも、ある名の知れた大金持ちのお嬢さんが駆け落ち、そして心中という事件が起こった時には、「これで3カ月はお客さんとの会話に困らない」と、父はその話題をことあるごとに持ち出して、お客さんとの会話に花を咲かせていた。
「やりたいことはやれるうちに」と、突然の手術体験で身をもって実感した僕は、翌日から、どうしたら海外で働けるのか、インターネットで調べ始めた。なかなか、そういった情報は見つからなかったのだが、ある会社が仲介となり、アメリカのレストランを紹介してくれるという記述があり、ものは試しにと早速メールすると、すぐに返事が。まずは東京で面接があるという。
両親にその旨を伝えると、いきなりの海外発言に開いた口が塞がらないといった感じで絶句していた。しかし、最終的には「あとでグダグダ言われたら、たまったもんじゃない」と、しぶしぶ納得。にもかかわらず、それを噂に聞いた親戚を始め、店のお客さんや業者さん、はたまた近所の人達までが、店まで説教しに押し掛け、“親不孝者”というレッテルを貼っていく。これだから田舎は困る。長男=後継ぎというルールに従わない者は、村八分というわけだ。
言い争っても仕方ないので、とにかく無視して、面接を受けに東京へ。そして、店を紹介してもらえることに決まった。気候的にカリフォルニア辺りが良いと思っていたけれど、ビザの関係か何かで勧められたのはシアトル。あまりピンと来なかったのだが、海が近いし、治安も良さそうなので、そこで店を探してもらうことにした。けれども、いろいろな手続きや、お世話になる店の方との話し合いにかなりの時間を取られ、そのうえビザはなかなか下りない。ひやひやしたが、何とか無事にビザが下り、気持ちも新たにシアトルへと旅立つことに。
出発の当日、店でひとり、仕込みをしている父から手紙が手渡された。読んでみると「自分で選んだ道、悔いのないように」とある。親のありがたさが身に染みた。
(次号につづく)

第11回 アメリカの寿司との出合い

都会とは、どれくらいの大きさの街のことを言うのであろうか? 定義は人それぞれだろうけれど、僕の目にシアトルは、ものすごく都会に映った。時々、シアトルは田舎だからつまらないと言う人に出会うが、一体どういった環境で育ったらこの街が田舎に見えるのか、皆目見当がつかない。そんなシアトルで、新しい環境に戸惑いながらも充実した日々を過ごしていた。
今になっては当たり前に思うことでも、来た当初は日米の寿司文化の違いに驚かされた。まず、皿に必ずワサビを添えること。さらに、そのワサビを親の仇のように、しょう油にべっとり溶いている姿。「ワサビは、しょう油に入れてから右に10回、そして左に10回かき混ぜるんですよ」と言ったら本気にするだろうなと、いつもその姿を見るたびに、からかいたくなる衝動に駆られる。そして、ウナギの寿司。日本では、穴子はあってもウナギの寿司なんて食べたことがない。しかし、アメリカでは人気べスト5に入る勢いだ。
巻き寿司も、あきれるくらい種類があり、しかも割安。日本で本物のカニを使ってカリフォルニア・ロールを作っても、同じ価格でできるとは思えない。それに、スパイダー・ロールだの、キャタピラー・ロールだの、アメリカ人にとって蜘蛛巻き、青虫巻きって、気持ち悪くはないのか? そんな数々の疑問を抱きながらも、アメリカの寿司文化が自分に合っているような気がした。
何年か経つと、やはり親の姿を見てきたせいか、自分の店を持ちたいと思うようになってくる。自分で店を開くとなったら、それなりのリスクがあることは百も承知だ。けれど、やりたいという気持ちに嘘はつけない。どうしたら自分の店が出せるのか考えてみたが、やはり先立つものがなければ始まらなかった。
「貧乏人は夢すら見られないのか……」と思ったその矢先、レストラン・ビジネスに詳しい方に出会い、いろいろ話を聞くことができた。金銭的なことやその他もろもろについての解決策も教えてもらえた。クリアすべき問題はある。しかし、自分の店が本当に持てるかもしれないと、夢が確信に変わった。
(次号につづく)

最終回 自分の店を持つということ

誰にでも、座右の銘と言うべきものがあると思う。僕にとってのそれは「良いことも長く続かなければ、悪いことも長く続かない」。これは瀬戸内寂聴さんの言葉で、いつも胸に留め、苦しい時も物事を前向きに考えるように努めている。
念願の店を持つまでの道のりは、ここでは書き切れないくらいやっかいなもので、精神的に本当にまいった。ようやく店舗が決まっても、金がないために、壁のペンキ塗りから床張りまで、すべて自分でやらなくてはならない。本を読んだり、インターネットで調べたり、YouTubeの動画でやり方を見たり、ホームセンターで説明を聞いたり。それと平行して、さまざまな許可書の取得も必要だ。とにかく時間と体力と忍耐力を要する日々であった。1カ月以上毎週末、文句も言わずに無償で手伝ってくれた友達にはとても感謝している。
とりあえず内装が終わっても、喜びはつかの間。オープンまでにすべての仕込みをしなくてはいけない。決めてあったメニューをいざ作ってみると、小さい店では使い切れない食材があったり、調理器具がないために仕事を中断して買い物に行ったりとバタバタの連続。メニューは大幅な変更を余儀なくされ、準備は前日の夜中まで掛かった。
そして、どうにかオープンに間に合い、08年秋、晴れて開店できた。が、お客さんが来てくれないことには話にならない。元々、繁盛していない店を安く買ったので固定客などおらず、しかも日本料理屋ではなかったため、集客は頭痛のタネであった。毎日のように近郊の会社や人の集まるところを歩き回ってメニューを配りまくるが、なかなか客は集まらない。そんな状況で、あのシアトルの記録的な大雪……。神も仏もいないのかと、うつになったのを覚えている。
そんなこんなでオープンしてから早2年。一難去ってはまた一難の連続で、今も気苦労は絶えない。けれど、やっぱり自分の店を持って良かったとつくづく思う。いろいろな人達によるサポートのおかげ以上の何者でもない。この先もいろいろな困難にぶつかるかもしれないが、何事にも前向きな姿勢で挑んでいきたいものだ。悪いことは、そう長くは続かないだろうから。
(終わり)

Akiyoshi Saito
静岡県焼津市という小さな漁師町で寿司屋の跡取り息子として生まれるも、いつの間にかアメリカに来てしまい、いつの間にか自分の店をオープンしてしまったという変わり者。現在、シアトルのジョージタウンにて「安くてうまい」をモットーに日本料理店「カッティング・ボード」を営業中。