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ルイス&クラーク探検隊二百年紀(後編)

アメリカ・ノースウエスト自然探訪2005年05月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

新生国家の黎明期、ルイス&クラーク探検隊は北西部に入って行った。
彼らがそこに残したものは、地図の空白部分を埋めるための足跡だけではなかった。
「ルイス隊長と行く『大ノースウエスト自然探訪』」キャラバンの後半。

コロンビア河
▲小麦、大豆、トウモロコシ、飼料、野菜、木材など、北米の主な農産物は
このコロンビア河を下って日本やアジア各国に輸出される
コロンビア河
▲コロンビア河の大きな支流スネーク河。探検隊はこの川を下ってきた
フォート・クラットソップ
▲フォート・クラットソップの様子。一行はこの砦(復元)で雨の多い北西部の冬を過ごした


分水嶺を越えて

1805年夏、ロッキー山脈に深く分け入るにつれて、インディアンの少女サカジャウェアはもはや探検隊一行になくてはならない存在になっていった。彼女の一番の面目は、大陸分水嶺を越えてショショニ族の部落に入った時に発揮され、それは劇的な再会でもあった。なんと一族の酋長は、サカジャウェアが10歳の時に生き別れた兄だったのである。部落に滞在する間、一行はショショニ族から最大限のもてなしと助けを受けることができた。さらに山越えのためカヌーを捨てた彼らに、必要数の馬が一族から分け与えられた(※1)。

その先の山道がこの探検行中の最大の難関だった。山は険しく、雪にも見舞われた。食糧も乏しくなり、一行の中には衰弱から病気になる者が続出した。ひと月余りの苦しい道のりの末、やつれきった姿でネパス族の村に辿りついた時、彼らは自分達が文字通り旅の山場を越えたことを知らなかった。そこはコロンビア河の源流の近く。探検隊はロッキー山脈を越えたのだった。

ネパス族の人々は一行を温かく迎え入れてくれた。彼らはこの地で半月余り体を休め、馬に代わるカヌーを作ることができた。

1805年10月10日、探検隊は再び西へ向けて出発する。スネーク河へとカヌーを漕ぎ出した一行は、速い流れに船が転覆することもあったが、1週間でコロンビア河との合流点まで下ることができた。現在のパスコ(Pasco)に当たるこの辺りのコロンビア河は、水量が豊かで比較的緩やかな流れである。一行がここを通った時はちょうどサーモンの溯上の時期で、川岸にはワラワラ族やチヌーク族などの集落と人々の姿があった。川を下るにつれ、彼らの船とも行き会った。これだけの多くの白人が集団で川を下って来たことは、ネイティブ・インディアンの彼らにとって目を見張る出来事だったようだ。彼らは一様に不安と警戒の様子を示したが、まずパンプを背にしたサカジャウェアが先に立って挨拶をすると、それはすぐに氷解した。彼らは女子供のいる集団は戦いをしないと思ったのだ。サカジャウェアの通訳で各部族とスムーズに交流を結ぶことができた探検隊は「使節」の役割を果たしつつ、日中は川を漕ぎ下り、大きな集落があれば立ち寄っていた。夕方にはカヌーを岸に寄せてキャンプを張った。

早く太平洋に出たいと気がせく一行だったが、コロンビア河にダムも橋もない時代である。途中の滝や瀬では、カヌーを引き上げて岸を歩かねばならなかった(※2)。

フォート・クラットソップ
▲帰路に備えて一行が塩を作った釜(?)が砦内の当時の場所に再現してある。彼らはここで海水を煮立たせ、水を蒸発させて塩を大量に作った
フォート・クラットソップ
▲多くの人々が訪れる週末や休日などには、来場者に対してインタープリテーションが行われるフォート・クラットソップ
キャノン・ビーチ
▲ルイスの日誌内で、海岸線の景色の素晴らしさについて触れられたキャノン・ビーチ


海だ!

すでに晩秋に入り、一行は霧と雨のコロンビア河の下流を下っていった。

1805年11月7日、流れが緩やかになり、突然霧が晴れた。左右の岸が尽きて、目の前にはただ広い水面が広がっている。"Ocian in View! O! The Joy!" クラークは日誌にそう記した。どれほどうれしかったことだろう。ここを目指して皆1年半も苦しい旅を続けてきたのだ。

一行はまず、付近一帯の地形を調べて地図を作った。皆で話し合った末、河口の南岸の小高い森の中に砦を築き、そこで冬を越すことにした。砦はその地の部族の名にちなんで「フォート・クラットソップ」と名付けられた(※3)。

我々にはおなじみの北西部の冬だったが、陰々滅々と続く雨やみぞれ、雪、強風の毎日に彼らはうんざりしたようだ。

それでも悪天の合間を縫い、翌春の帰途に備えて塩と保存肉をたくさん作った。兵は海水を沸騰させて塩を作り、猟に出た者が仕留めたエルクの肉を塩漬けにした。ルイスとクラークは周辺の海岸を調べ歩き、記録に残した。ヘイスタック・ロックの大きさにはさぞ驚いたことだろう。現在のエコラ・パーク、キャノン・ビーチの眺めを「この眼が初めて見る雄大な景色」と述べている。

帰路

1806年3月23日、フォート・クラットソップを撤収し、一行は帰途に着いた。往路の記録と経験があったおかげで、東へ向かう旅はスムーズだった。大陸分水嶺から東へは、クラークが別働隊を率いてイエロー・ストーン河を下るルートを辿った。ルイスの本隊は往路よりさらに北の峠を通り、ロッキー山脈を越えた。7月にミズーリー河上流の北方平原で、ブラック・フィート・インディアンと小さな戦闘があった。

8月17日、マンダン族の部落に入り、ここで探検隊一行はシャルボノー、サカジャウェア、パンプの3人と別れた。パンプは2歳になり、インディアン・ダンスが踊れるようになっていた。

1806年9月23日、往路で病死したフロイド軍曹を除いた全員が、無事にセントルイスに帰り着いた。人々は、彼らはとっくに死んでいると思っていた。

探検隊が2年5カ月かけて踏破した往復の総距離は、約8,000マイル(1万3,000キロ)に及び、探検に要した総費用は約4万ドルだった。米北西部地域へのルイス&クラーク探検隊は大成功に終わり、ジェファーソン大統領を始め、合衆国中が彼らの業績を称えた。

エピローグ

この大きなドラマの登場人物達が、その後辿ったそれぞれの人生はどうだったのか? 探検行中、ルイスとクラークはお互いに助け合い、どんなに苦しい時でも決して仲違いしなかったと言われている。そしてその友好は、その後も死ぬまで続いた。ただ、それは短く、2人の道は明暗を分けたのだが……。

探検隊成功の第一人者であるルイスは、彼が踏査したルイジアナ・テリトリーの長官になった。破格の処遇と言えるが、彼は政治の世界の人間ではなかった。公私共で失敗と心労が続き、探検行の成果を本にまとめることも成し得ぬまま、探検後わずか3年、33歳で亡くなった。自殺とされているが、死因を詮索することにあまり意味はない。彼は野に赴くべき人間だったのだろう。生涯の終わりに臨み、彼の脳裏をよぎったのはどんな景色だったのか。

クラークも同じくルイジアナ・テリトリーで、軍とネイティブ・インディアン関係の要職に就いた。ジェファーソンの指示と盟友ルイスの遺志を受け、彼がルイス&クラーク探検隊の記録を報告書に取りまとめて本にした。幸せな家庭を持ち68歳で亡くなるまで、インディアンの人々との交友も絶えなかったという。

ジェファーソンは1808年に大統領の任期を終えた後、一切の公職を辞めて故郷バージニアに帰った。そして政治に携わっていた間できなかった建築家としての仕事にいそしんだ(※4)。晩年の彼がもうひとつ取り組んだのは、バージニア大学の設立だった。国を導く後世の人材を育てるためである。同校は彼の狙い通り、28代のウィルソン大統領を始め、たくさんの人材を輩出する名門校になった。ジェファーソンはこの大学の校舎の設計も自ら手掛けた。

サカジャウェアについては、近年になって多くの人の手によって調べられているが、マンダンで探検隊一行と別れた後の彼女の正確な消息はわかっていない。短命と長寿の2つの説があり、前者はセントルイスに出てきた時、伝染病に掛かり23歳で死んだという説。後者はインディアンの悲劇的な運命を見ながら、95歳まで生きたというもの。いずれの説も確証は得られていない。

隊長の激白

この探検行により「北西部と西部に“国”の力で足跡を記した」アメリカは、のちにこの地域の領有権を主張していった。現代ではおかしな論理に思えるが、「そういう時代だったのだ」と思うしかない。結局その後の半世紀余りに、アメリカはスペイン、イギリス、メキシコ、ロシアからそれぞれの領土を買い取って、あるいは勝ち取って今の大きさの国土になった。

当時のオレゴン・カントリー(現北西部の諸州)は英米西露の四カ国が領有を主張していたので、ルイス&クラークの探検行が成功しなければ、今ごろシアトルやポートランドはカナダのような英国連邦の一部だったかもしれないし、ロシアあるいはスペイン領になっていたかもしれない。歴史の“if”を考えるとキリがないが、この探検がアメリカの発展の導火線となったことは間違いない。

だが、本当に驚くのはジェファーソンの恐ろしいほどに将来を見通す目である。日本ではまだ江戸時代のこの頃に、領土の拡張はもちろん、将来は通商が重要になると見て、そのためのルートを考えていたのである。現在コロンビア河がどういう役割を果たしているかは、改めて書く必要はないだろう。アメリカだけでなく、この川はもはや日本の生命線にもなっている。

もうひとつのジェファーソンの卓見は、ネイティブの人々との関係を築く姿勢だった。探検隊一行が未知の土地で未知の人達に出会う時の情景や会話には、人と人の出会いの原点を見る思いがする。ジェファーソンの持論である人権と平等の考えをルイスとクラークが共有していたから、2年半もの間ネイティブの土地で大きなトラブルもなく、彼らは旅を続けられたのだ。それには何よりサカジャウェアというスーパー・ガールと出会った幸運があるが、彼女自身、探検隊の空気が人種の覇権をなびかせるようなものだったら、恐らくあのような献身的な働きはなかったのではなかろうか。サカジャウェアの生涯が短命説通りだったら、それはそれで彼女は幸せな良い時代を生きたことになる。なぜなら、その後の歴史の展開はここに登場した人達の意向とは裏腹に、インディアンにとって酷く理不尽なものだったからだ。

北西部にいる私達は、ちょっと出掛ければ彼らが通ったルートを辿ることができ、彼らの見たものとほぼ同じ自然を見ることができる。二百年紀を機会にちょっと歩いてみよう。8,000マイルの道程と二百年の時の流れをほのかに感じることができるかもしれない。

■注釈
※1.必要数の馬:ショショニ族の持っていた馬の数は多くなかったが、その中から隊員の数と同じ29頭の馬が探検隊一行に分け与えられた。
※2.途中の滝や瀬:大きな滝に現ザ・ダルズ(The Dalles)の上流に位置したセリオ・フォールズ(Celilo Falls)があったが、1960年のザ・ダルズ・ダムの完成で水没。また、現ボナビル・ダムの辺りは流れの速い瀬だった。
※3.フォート・クラットソップ:その地点は正確にはまだ河口だったが、彼らが海だ!と思ったのも無理はない。コロンビア河は世界でも有数の大河で、河口の川幅は10マイル近くに広がっている。現在ここは国定史跡となり、忠実に復元された砦とビジター・センターがある。
※4.ジェファーソン:5セントコインの表の肖像がジェファーソンで、裏は彼のデザインによる建築物のひとつ、モンテッソロ(ドーム)。彼の設計した建築物のうち2つが世界遺産となっている。

Information【ルイス&クラークの旅を辿るスポット 】
■Lewis & Clark National Historical Trail
連邦政府は1978年、セントルイスよりアストリアまでの11州、往復8,000マイルにわたるルイス&クラーク探検隊のルートを「National Historical Trail」として整備、保存することを決めた。3種類のトレイル(Water Trail、Land Trail、Motor Trail)と沿線の83カ所の連邦・州の公園で構成される。
ウェブサイト:www.nps.gov/lecl/
■Fort Clatsop National Memorial Park
ルイス&クラーク探検隊一行が1805年から翌年に掛けて越冬した場所に、復元された砦と充実した展示のビジター・センターが建っている。インタープリターが常駐し、興味深いインタープリテーション(歴史や風物などの解説)を行っている。なお、一行が冬の間、塩作りを行った場所ソルト・ワークス(Salt Works)はフォート・クラトソップから数マイル南へ下って、シーサイドの街の外れにある。
ウェブサイト:www.nps.gov/focl
■Columbia Gorge Discovery Center
ザ・ダルズにあるコロンビア・ゴージのミュージアム。ルイス&クラーク探検隊の二百年紀にちなみ、今年は5~9月に、一行が使用した隊の装備や荷物をテーマとした展示を行う。プログラムやイベントも多彩に揃う。
ウェブサイト:www.gorgediscovery.org
Reiichiro Kosugi

1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。

エコ・キャラバン写真サイト:http://c2c-1.rocketbeach.com/ ̄photocaravan