シアトルの生活情報&おすすめ観光情報

ワシントン州・タコマとその周辺

アメリカ・ノースウエスト自然探訪
2010年05月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

1世紀以上前、永井荷風は小説『あめりか物語』でタコマの情景を描いた。北西部に今いる私達はさて、この街のことをどれくらい知っているだろう?

タコマの移り変わり

レニア山の北西、この雄峰にもっとも近い都市がタコマであり、“タコマ”、あるいは“タホマ”は先住民の言葉で「水の源」という意味である。太古から先住民がその一帯に住んでいた。
 

19世紀にイギリス人が海からやって来て、当時のハドソン湾会社の交易所をニスカリー川の河口、現在のデュポン(DuPont)の辺りに置いたのが1833年。やがてワシントン州最初の街がタコマの西、ステイラクーム(Steilacoom)にできる。背後に広大な森林があり、製材業が発展した。州初のプロテスタント教会、図書館、刑務所もこの街にできた。しかしタコマが飛躍的に発展を始めるのはさらに30年あまり時代を下る。米大陸横断鉄道(Northern Pacific Railroad)の西のターミナル駅となったことに加え、タコマ港が国際港として整備されたことが大きな理由である。全米の他都市に加え、中南米、極東への木材、穀物の輸出拠点となった。大型船の修理や造船、機械工業も興ってくる。

作家、永井荷風が渡米して最初にタコマに住んだそのころは、この街が北米の国際港湾都市として急速に発展している時期であった。20世紀に入り、あらゆる産業が勃興した。が、基幹産業は港湾と鉄道と工業であり、街をいかにも産業都市然とした景観にし、住民はブルーカラーの多い、雑とした都市になり、陸・海・空、3軍の施設も周囲にできた。

車が普及した戦後60~80年代、年を追うごとにアメリカの大都市お定まりの問題、すなわち麻薬、犯罪、バンダリズムなどが、タコマのダウンタウンを次第にスラム化していく。90年代に入ると、タコマの人々の間に街を再生しようと「Downtown Revival」の機運が盛り上がった。街の中心にワシントン大学タコマ・キャンパスができ、タコマの街の顔と言うべきユニオン・ステーションの建物が復元された。それに隣接してガラス美術館※1、ワシントン州博物館、タコマ美術館、コンベンション・センター、現代的なホテルが相次いで建つ。今世紀に入り、ダウンタウンの交通の軸としてリンク・ライト・レールが敷かれ、早速市民の足となっている。今は「タコマのダウンタウンは随分良くなった」と多くの人が言う。

本来恵まれた地勢と環境

車でI-5を走りタコマに近付くと、グレーのタコマ・ドームが見え、ハイウェイを通ってダウンタウンに入っていく。タコマを訪れるほとんどの人はそのダウンタウンを見て云々言う。そこは、確かに言わば街の顔ではあるかもしれないが、ダウンタウンだけを見て、きれいな街だとか、魅力のあるなしを言うのは、ちょっと不遜ではなかろうか? もう少し広く周辺からこの都市を眺めていくと、この街がもともと自然の景観にとても恵まれていることがわかってくる。タコマを取り巻く自然環境として、大きくは海(ピュージェット湾・海峡)、岬(ポイント・デファイアンス)、原野、点在する湖、指呼の間にそびえる雄峰レニア山がある。どれをとっても恵まれた自然景観だと思う。が、ひとつ「これは惜しい」と隊長が思うことがある。それはタコマいちばんの風光と言っても良いタコマ・ナロウズ※2とそれをまたぐ有名な吊橋、タコマ・ブリッジの景観を堪能できるビュー・ポイント(公園)がないことだ。

市の北のポイント・デファイアンス・パークは、全米の都市公園の中でも有数の広さがあり、いろいろな施設もある素晴らしい公園。市民格好のレクリエーション場として、たくさんのタコマ住民に愛されている。そこにはナロウズと橋を見るスポットもあるにはあるのだが、いかんせん遠すぎる。「おおッ」という感動と共に、存分に景色を堪能できる地点はすべて住宅地になっており、この街を訪れた人がその景色を楽しむことは難しい。あえて挙げれば、ひとつは海辺を走るアムトラックの車窓から、もうひとつはタコマ・ブリッジを車で渡る時の車からだが、それらをビュー・ポイントとは言えないだろう。いずれもこの市と市民にとっては大変に惜しいことだと思う。

住環境としては街の北、西側には海に向かって開けた閑静な住宅街が広がっている。ちょっと良い雰囲気の街並みも、駅の周囲や旧市街の辺りにある。街の中で古い伝統のある建物や、いわゆる小じゃれた建物、キラリと光るこだわりのレストランや店などを見つけることも多い。ある時何気なく立ち寄った日本食レストランでは、突き出しのおから料理がおいしくて、そのことを伝えると、「うちは豆腐を作っているんです」と言うので冷奴をもらったら、絶品のうまさだったことがある。シアトルに比べると、人も少なく変に過剰な宣伝臭がない分、庶民的な街と言えよう。

永井荷風の足取りをたどる

永井荷風は、アメリカ各地に滞在中の見聞をエッセイにしたため、日本の文芸誌上に発表している。1908年(明治41年)7月にパリから帰国し、翌月これら24編の小文をまとめ『あめりか物語』として刊行した。その24章中、ニューヨークを題材にした章が半分の12章であり、シアトルが2章、タコマが2章だ。

日本にいても海外にあっても、彼の関心を向けた先は、終生「人間」と「文明」であった。東京生まれの、元々「街のひと」である荷風は、「人」が大好きで、『あめりか物語』の主題はまさしくこれだった。それゆえの必然か、都市での、しかも場末た歓楽街などでの見聞が大部分であり、本書で自らのアメリカの自然観を述べる部分は「夏の章」にある次の1カ所しかない。

「去年自分は落機山(ロッキーざん)とナイヤガラ瀑布を過ぎた折、この世界の奇勝も予想した程には自分の心を動かさなかったが、それに反して、ミゾリ州の落葉の村、ミシガン州の果樹園の夕暮れに忘れられぬ詩興を催されて、坐ろに感じたことがあるー (以下略)」 永井荷風著『あめりか物語』(新潮文庫ほか)より

ただ、「牧場の朝」の章では、タコマ周辺を友人とサイクリングした秋の1日について述べている※3。彼は街の北からTacoma Ave.を南東へ下り、南タコマを経て西へ向かい、アメリカン・レイクでひと休みしてから「スチルカム」(=Steilacoom)を訪れた。この間の風景描写で、当時のタコマの様子が随分と想像できる。その当時、タコマ橋はまだなかったが、彼が見た100年前にほぼ近い景色を、今私達もたどることができる。永井荷風が最後の江戸情緒を探し歩いて後年(昭和時代)、玉の井などの世界を描いた。それは日本でありながら想像でしか追体験できない。うんと遠い世界のようでおぼろな像しか結ばないのに比べ、タコマのこの章はなんとリアルなイメージで読めることだろうか。ちょっと不思議な気がする。

「夜の霧」の章は、シアトルからタコマへ電気鉄道に乗ったという書き出しだが、これはもう現存しないPugetSound Electric Railwayというシアトルータコマ間の電車路線だ。荷風はセントルイスでは万国博を見物しているし、ニューヨークでは地下鉄にも乗っている。その当時のアメリカの豊かさ、文明観、人々の自由についての彼の正しい認識は、本書から存分にうかがうことができる。帰朝後の日本文壇での彼の良識と国際感覚がゆるぎないものであったろうことは想像に難くない。

一方で、永井荷風は広く深い教養を備えていた。その醒めた目は、当時の日本で徹頭徹尾自由な個人として、日本の近代の危なさ、いかがわしさを見ていた。しかし彼の書くものこそ当時の日本では逆に「いかがわしい」と見られていた。彼は発禁処分の常習犯であり、決して体制と争うことはしないが、決して迎合もしない反権力の作家であった。

昭和に入り、軍は不本意にせよ、日本を対米戦争へと向かわせることになる。荷風は間違いなく日本がアメリカに敗れることを予想しながらも、官憲の摘発を恐れ、逃れながら最期の作品『断腸亭日乗』で、その心情を吐露していった。その後の世に出るように。それが彼の最大のレジスタンスだったし、彼自身、東京の空襲で次々に住む場所、移る先を焼かれ逃げまどった。ほとんど死を覚悟していたと思われる。

かつてすごしたシアトルで造られた爆撃機の編隊を見上げて、永井荷風は本当は何を思っていたのだろう? 削除抹消だらけの日記の空白部分が、多くのことを語り掛けている。

※1 タコマ出身の世界的に有名なガラス工芸作家にデイル・チフリ氏がいる。
※2 市の北西部にある海峡。ピュージェット湾はここがいちばん狭くなり、さらにオリンピアへと続いている。
※3 この小文のテーマは、その日友人から聞いた当時の当地に日本から来た下層移民の悲惨なエピソードについてである。それは、ぜひ本書でお読みいただきたい。

レニア山
▲ダウンタウンに面するセア・フォス水路からレニア山を望む
ハイウェイと鉄道
▲当時の谷は、今はご覧の通りハイウェイと鉄道が通っている
ステイラクーム
▲ワシントン州最古の街、ステイラクームとノーザン・パシフィック鉄道の線路。アムトラックの列車もここを通る
タコマ・ダウンタウン
▲セア・フォス水路の向こうにダウンタウン中心部を望む。円錐型のパビリオンがガラス美術館。その後ろにユニオン・ステーション
橋
▲荷風らが自転車で通ったと思われる「街端れの大きな渓の上に架けてある橋」の上
アメリカン・レイク
▲永井荷風がサイクリングの途中で休んだアメリカン・レイク。当時と同じように黒松(ダグラスファーのことを指している)と樫(オーク)の木立が湖畔に残っている。


Information

■タコマ・ブリッジの崩落
タコマ・ナロウズをまたぎ、1940年に完成した当時世界第3位の長さのつり橋。設計ミスによりひどく揺れ、強風のためにわずか3カ月で崩落。建築史上世界的に有名な事例となった。ワシントン大学の研究チームにより、崩落の過程が映像として記録され、構造物が風を受けて生じる振動についての研究が飛躍的に進んだ。その崩落の実写映像はYoutubeで見ることができる。1950年、現在のつり橋が建設され、さらに2007年に第2橋が架けられた。

■永井荷風(1879 年~1959年)
代表作は『あめりか物語』(1908年)、『ふらんす物語』(1909年)、『?東綺譚』(1937年) 、『断腸亭日乗日記』(1917年~1959年)など。1903年~1908年に外遊し、当初はタコマの学校(高校?あるいはカレッジ)で英語を勉強。その後、中西部、ニューヨークを経て1907年パリに渡る。1952年文化勲章受賞。

■『あめりか物語』
当時の日本の文芸誌に発表された一連のアメリカ見聞記。永井が見聞した最貧から上流階級までのさまざまな階層の在米日本人の生態と、アメリカ人の主に市井の人々の観察記。(新潮文庫ほか)

(2010年5月)

Reiichiro Kosugi
1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。