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【私の転機】在シアトル日本国総領事館 総領事 稲垣久生さん

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シアトルやポートランドで活躍する方々に人生の転機についてインタビュー

今年の8月、在シアトル日本国総領事館に着任した稲垣久生総領事。長く、外務省の情報通信分野で活躍してきた稲垣総領事に、これまでの転機を伺いました。(2020年11月)

在シアトル日本国総領事館 総領事 稲垣久生 さん
稲垣久生(いながき・ひさお)

三重県出身。1985年、東京工業大学大学院修了後、外務省に入省。情報通信課情報システム統括企画官、広報文化外交戦略課IT広報室長など情報分野に長年携わる。また、北米一課(1991年)、在アメリカ合衆国日本国大使館(1996年)や在シカゴ日本国総領事館(2012年)などアメリカに関わる仕事も多い。2020年7月より現職。好きな食べ物はカツ丼。

私の父は戦時中はモールス信号の技師で、戦後は電電公社に勤めていました。また、兄は大学で情報通信を学び、コンピューター関連の仕事に就きました。そうした環境で育ったためか、これからコンピューターの時代が来ると確信があり、大学は理工学部に進んだのです。就職を考え始めたのは、中森明菜の『北ウイング』が流行し、テレビを通じて海外の様子を知ることが増え、海外旅行者や留学者が急増し始めた頃。いつしか海外に憧れるようになり、外務省で情報分野の仕事があるとのことで入省しました。

– 自分を作り上げた出会いの積み重ね
これまでを振り返ると、一つの転機が私を変えたというより、いくつもの出会いから、さまざまなものの見方や考え方を身に付けていった気がしています。印象に残る出会いを挙げると…、まず入省直後にお世話になったのが故天野之弥さん。後に国際原子力機関事務局長として活躍した方です。物事を極めて合理的に理詰めで考える方で、物事をこれほど割り切って考えられるものかと驚くと同時に、その仕事術からは多くの学びを得ました。それから作家の佐藤優さんは同期入省で、読書家の彼からは読書術や歴史から今を学ぶ姿勢を教わりました。また、小和田雅子さん(当時)は私が北米一課にいた頃、隣の北米二課に所属していて、一緒に仕事をしたことがあります。外務省から皇室という道を選ばれていく姿を側から見ていて、本人の努力とは関係なく、運命というものは確かに存在するんだなと感じました。

それから奥克彦さんも一緒に仕事をした同僚ですが、彼は2003年のイラク日本人外交官射殺事件で亡くなりました。ニューヨークの同時多発テロでは仕事で関わりのあった仲間が亡くなり、スマトラ島沖地震では後輩が亡くなりました。共に外交の仕事をしてきた人が亡くなると落ち込みますよね。でも、残された人は後を継いで目の前の仕事に実直に取り組むしかありませんし、だからこそ、東日本大震災のトモダチ作戦のように諸外国から邦人救助の支援をいただく機会があると、感謝の念が心から沸き起こります。

– 在留邦人にとって便利な領事館へ

これまでさまざまな分野に携わりましたが、一番長いのは省内の情報化やIT化です。仕事柄、世界のITの中心地、シアトルのことはよく耳にし、いつか行きたいと思っていました。そんな私に下りた辞令がシアトル総領事という職務だったのです。

実際に来てみると、ここは緑豊かで魅力ある土地と感じました。シアトル領事館は明治33年からあり、諸先輩方が紡いできた歴史に身の引き締まる思いです。観光、IT、農林水産や医療分野も強く、これだけ多様な産業がそろう州は他にありません。日本にシアトルの魅力を伝え、日本の企業を、ぜひ積極的に呼びたいと考えています。

また、日本にいた頃から携わってきた仕事に申請システムのオンライン化があります。感染症対策の面からも、今後、一層、窓口業務の一部の簡易化やデジタル化を進め、皆さまにとって便利な領事館でありたいです。なかなか一筋縄でいかないのですけれど、皆さまの声に耳を傾け、サービスを充実させていければと思っています。

在シアトル日本国総領事館 総領事 稲垣久生 さん
▲ 就任以降、多くの仕事がリモートになる中、キャピトルヒルのレイクビュー墓地へ足を運び、日系兵士の記念碑に献花をしました。
 
*情報は2020年11月現在のものです

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