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ノースウエストの海と魚(5)カキの話(後編)

アメリカ・ノースウエスト自然探訪
2010年01月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

再びノースウエストの“竜宮城”を訪れた隊長
カキの種霊とカキ養殖の大御所ふたりから話を聞き
北西部の生命の豊かさに改めて驚いている

海のミルク

耳にもおいしい“ジュブジュブ“という音と共に、魚達がカートを押してきた。こうばしい匂いがラウンジに広がり「オォッ」と声が上がる。「さ、皆さんお待ちかね、カキの味噌焼きよ。わあ、おいしそうね」。ノウ姫がニコニコしながら一座に振る舞う。湯気がまだ立っているが、皆待ちきれずフーフー、ハフハフとほお張った。「うまいっ」「最高!」「生も鍋も良いけど冬はやっぱこれだね」と言いつつ、Mさんが今晩何本目かのワインに手を伸ばす。「まあMさん。地場のワインがおいしいからって飲み過ぎは体に良くありませんよ」と姫がやんわりたしなめると「なんの、これを食ってる限り悪酔いも二日酔いもしないんだよね、これが※1」「ほんと、私もいつもこいつを食べているお陰で病気知らず薬いらずです。いまだに現役で働いていますよ」と言うのは、おん歳八十いくつかのYさん。見るからに元気だ。「カキは昔から海のミルクと呼ばれててね、たんぱく質、ビタミン、ミネラル、アミノ酸、高度不飽和脂肪酸が含まれる万能栄養食品です※2」。いつしかカキの種霊はふくよかな女性の姿になっている。

隊長も箸を置いて「私も調べてみました。まるで強壮ドリンク剤と総合ビタミン・サプリメントを一緒にしたようです。1種類でこれほどの栄養素が、しかもバランス良く含まれる食品は稀ですね……しかもうまい。それが、私は小さいころはカキは嫌いでした。見た目と食感が苦手でね。今思うととても惜しいことをしていました」。そこにカキの種霊が口を挟む。「でもね、たくさんの日本の子供達が私のエキスを食べて育ちましたね」「え?」「グリコのキャラメルですよ。カキの煮汁のグリコーゲンが入っています。1粒で300メートルは本当なのです。成長と運動には欠かせない栄養ですね」。さらにノウ姫。「カキの栄養は美しい肌と髪を造ります。ダイエット効果もあるんですよ※3。あら、私としたことがまるで陸(おか)の女性みたいなお話ね……。それから、貧血、冷え性、疲れ目、不眠症の緩和でしょ。もっともっとあるわ……。ほんとカキさん、あなた達ってすごいわよね※4」

世界に広まった「マガキ」

「世界を席巻する日本のマガキの続きを聞かせてください」と隊長がYさんに促した。「うん。知っての通りカキを食べる文化の歴史と伝統をリードしてきたのはフランスだ。あっちは主にヨーロッパヒラガキ(ブロンカキ)だね。ところが60年代から70年代に、フランスのカキ産地はカキの病害で壊滅的な打撃を受けたんだ。その折、急きょ導入されたのが日本のマガキだった。これがしっかりと繁殖してフランスの養殖業者達は救われたんだ。マガキは病気に強く環境にもよく適応するんだな※5。その後ヨーロッパ全体とオセアニアでも、マガキの養殖が広まった。いろんな見方はあるが、今では世界のカキ養殖と消費を支えているのがマガキなんだ」「それとね、現代の世界のカキ食文化を支えているもので」とMさんが続ける。「マガキが日本発のハードウェアだとしたら、日本発のソフトウェアもあるんだよ。この半世紀でカキの市場を大きくした、ふたつの大きな開発だ。それが……」と言い掛けると、硬い殻の姿になったカキの種霊が話し出した。「ひとつは50年代に開発されたカキ殺菌技術※6ですね。これで人類史上ずっと世界中の人を悩ませてきた生カキの食中毒を抑えることができました。もっともその処理の間に私達はかなり身やせしてしまいますが」。続いて中性の妖精の姿になり「もうひとつは90年代に実用化された3倍体カキです※7。種なしの果物と同じ原理で1代限りですけれど。このふたつの技術開発は、カキとヒトの関係をそれ以前の時代と以後の時代にはっきり分けました。ヒトはカキを自然の枷(かせ)から解き放ち、より多くの人達がカキを食べられるようになったのです」

カキの来た道

「1億年の私達の歴史にヒトがかかわってくるのは、この1万年ほどでね」。カキがようやく話し始めた。「各大陸の沿岸のあちこちに人類が棲み始めたころ、もっとも手近で口にできた動物たんぱくは貝だったろうね。世界各地の貝塚から出土する貝やカキの殻がそれを物語っている。それにアサリは砂に潜るけど、我々は動かないから捕りやすい。でもそれだけじゃないな。カキはおいしくて、栄養があって体に良い食べ物だとヒトはすぐ知ったんだ」。それを受けてMさん、「だから、岩礁など自然の採取場だけにとどまらず、ヨーロッパでは紀元前からカキの養殖が行われてきたんだね。日本では中世から、新大陸アメリカでも入植者の定住/増加と共にカキの養殖が行われてきた。そしていろんなことすべてが大きく動いたのが20世紀だね」。続けてYさんが言う。「日本のマガキがここまで世界の海と食卓を席巻するとは思わなかったな」「マガキの持つ強さは、雑種強勢なのかな?」「それだけじゃないよな」……話の弾むふたりの大御所を、ノウ姫がやんわりと取り成す。「どうぞ隊長にわかるように話してあげてくださいな」「そうだね」とYさんが語った話はざっとこうだった。

「ビミョー」なカキ

揺らめく姿のカキの種霊は静かに話し続けた。「私どもカキの仲間はどこでもいつでも居ついた環境に合わせて生きてきました。個体で適応できなければ、時間を掛けて種全体で適応していきます。カキは植物に近い環境の産物なのです。私どもは動かないし餌もいらない、地まきされた場所で自然に大きくなります。魚やエビなどと比べると、カキほど養殖しやすい生き物は少ないでしょうね。ただ、水が汚れればその汚れはまとまってヒトに(返って)いくでしょうし、環境の乱れが限界を超えれば、動けない私どもはやがて生きていけなくなるでしょう。ヒトがカキを養殖していく以上、最も気を付けなければならないことは、カキの棲む生態系、つまり環境を維持することでしょう。ノースウエストの在来種オリンピアカキが、東部チェサピーク湾のバージニアカキが、フランスのブロンカキが、なぜ20世紀中に相次いで絶滅寸前まで追い込まれたのかを、正しく知っておく必要があると思います。私どもの種は地球に1億年以上続いてきていますが、現代は微妙な時期なのかもしれません。海も川も森も気候も食糧も食文化も健康も、今世紀中の人類の産業活動すべてが関係してきます。そういうものの上にカキの命運は掛かっているのです」

「そうだな、カキは食糧問題と健康の有力な切り札だし、森林と同じくそれ自体が海水の巨大バイオフィルターとして海をきれいにしているよね。パンや卵と同じ、カキもひとつの食品で商品だ。でも、お金では計れない、それ以上の何かを私達に与えてくれるね」とMさん。座の皆がそのことにしばし思いを巡らせていると、ノウ姫がゆっくりしみじみと言った。「そうですね。いつまでも海がきれいで、今日もおいしいカキを皆でいただいていて元気でいる。素晴らしいことですよ」。その言葉はすーっと皆の胸に入り、気持ちが晴ればれとしたのをはっきり感じた。隊長は思った。ムーンバックスカフェはここに集う人達の心を通わせるなぁ。

モノローグ

海の幸を生で食べる食文化のある日本では、カキの生食の習慣だけは近年までなかった。逆に魚介類を生で食べることが少ない欧米で、カキだけは生食の習慣が古くからあった。ところが、この半世紀の間に期せずして日本のマガキとカキ養殖の革新が、世界のカキ食文化を支える主な役割を果たすようになる。そして、この北西部は天然の海の利と先人の働きで、地場産のカキをごく手近に味わえる環境にある。時代の不思議な巡り合わせでもあり、ノウ姫の言う素晴らしい幸運のようにも思える。「自然の恵みーいのちー歓び」という、ひとつながりの実感を胸に、隊長はカメボートで竜宮城を後にした。

※1 18種類のアミノ酸が含まれるカキには、血液のコレステロール値を下げるほか、高血圧や動脈硬化、狭心症、心筋梗塞、糖尿病予防、疲労、神経系のバランス回復などの効果がある。強壮ドリンク剤にも含まれているタウリンは、肝臓の中性脂肪を減らしアルコールの分解を助ける。

※2 さらなる栄養素として、ビタミン(A、B1、B2、B6、B12、C)、葉酸、ミネラル(亜鉛、カルシウム、マグネシウム、コバルト、燐、鉄、銅)、高度不飽和脂肪酸、DHA(=ドコサヘキサエン酸)、EPA(=エイコサペンタエン酸)、 ヨードが含まれている。

※3 カキのアミノ酸はメラニン色素を分解する働きがある。肌のシミを薄くし、必須アミノ酸のトリプトファンとヨードは、つややかな髪を造る。

※4 その他の効能として、コレステロール値を下げ、良い血を造り、高血圧や糖尿病を防ぐ効果などが挙げられる。特に肝臓を健全にする働きは顕著だ。さらに脳細胞の活性化(DHA)、動脈硬化や血栓の予防(EPA)、亜鉛の効能は多岐にわたり、特に成長障害、味覚障害の緩和、精力増強、疲労回復に効果がある。

※5 マガキは氷点下から50℃までの水温と5~35%の塩分濃度の変化に適応し、水がなくても約1カ月生存する。もともと東北アジアが生息域であったが、養殖用の種苗の移送と船舶の往来により、現在では亜寒帯から熱帯の海全域に及ぶ。

※6 紫外線を用い無菌状態にした海水の中でカキを一定期間飼育すると、体内の細菌や内臓などの有害物質がすべて排出され、生食できる無菌無害のカキとなる。

※7 3倍体カキは、通常は2対の染色体をバイオ技術を用いて3対にし、生殖機能をなくした中性のままのカキ。産卵しない分成長が早く、グリコーゲンの部分(=身)が大きい。通年を通して出荷されるので、いつでも食べることができる。

リシア・パーク
▲左からオリンピア種、クマモト種(マガキ)、フッド・カナル産のマガキ。同じ月(10月)でクマモト種が小粒でも身入りが良いのがわかる
リシア・パーク
▲水深の浅い海面へ作業に出るエア・ボート。カキの養殖には遠浅の入り江で干満の差が大きい水面が適している。ワシントン州ベイシティーにて
リシア・パーク
▲干潮時に水が引く海底で、カキはこのようなケージに集められる。ブイが付けられており満潮時に作業船のウインチを使って集荷される。ワシントン州ピュージェット湾のフッド・カナルにて
リシア・パーク
▲ハッチェリーで幼生を固着させるための、クラッチ(Clutch)と呼ばれるカキ殻。車のクラッチと同じ言葉で「つかむ」。幼生はこのクラッチにつかまりそこで成長する
1935年設立当初のシェイクスピア・フェスティバルのメイン劇場
▲ワシントン州ダボブ湾クロスィン(Quilcene)にある、カキのハッチェリーは、年間で300億以上のカキの幼生(Larvae)を生産できる世界最大級の施設。夏の海水温に保たれたタンクの中で種が発生、幼生は3週間ほどで0.3ミリほどの大きさに育ち硬い基盤(自然の海中では岩など)に定着する


Information

■『フランスを救った日本のカキ』山本紀久雄著
(小学館スクウェア)

ヨーロッパで連綿と伝わってきたカキを食する文化を紹介。半世紀前にその主役たるフランスのカキが全滅の危機に瀕した際にそれを救ったのが日本のマガキであったことを、現役の専門家ならではの筆致で書いている。

■『カキ礼賛』畠山重篤著(文春新書)
三陸海岸でカキ養殖を行う著者が、世界のカキ遍歴を経て地球規模の自然と人間の共生に思い至る。シアトルで食したオリンピアカキを「魅惑の味」と称しているのはヨイショか?

■ワシントン州魚類野生生物局
クラム、カキ、海草類などの採取についての情報(時期、場所)とルールについて述べている。細目は毎年更新されるので出掛ける前にチェックが必要。
Washington Department of Fish & Wildlife
http://wdfw.wa.gov/fish/regs/2009/09_regs_6.pdf

Reiichiro Kosugi
1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。